BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:20--年-月-旬 『大陸西遊記』~


海南省 昌江黎族自治県 昌化鎮 ~ 県内人口 25万人、一人当たり GDP 59,000 元(県全域)


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  昌化県城(古昌化城。今の 昌化鎮昌城村)
  趙鼎衣冠墓
  南門墓群、治平寺碑、峻霊王廟遺跡
  至来県城(今の 昌化鎮旧県村)



投宿していた 7天ホテル前の、高速鉄道「海口東駅」から出発する。 1時間に一本あるルートで、棋子湾駅で下車する(所要時間 1時間半、66元)。

棋子湾駅に到着後、駅外にあるバス停から「古昌化城(昌化鎮昌城村)」へ向かう郷村バスを探す。
昌江黎族自治県の 中心都市「石録鎮」へ向かう路線バスは、定期便として運行されているようだった(1時間に一本の割合)。なお、こんな山奥の石録鎮を県都たらしめる背景は、中国最大の 露天堀鉱山「石録鉱山」の存在で、日中戦争時代、日本軍も積極的にここで鉄鉱石採掘を行っている。そして、沿岸部の八所鎮まで運び出し、ここから日本へ輸出していたという。現在、この八所鎮は 海南省東方市 の中心都市となっており、両都市は共に鉄鉱石絡みで発展したわけだった。

ちなみに、海口西バスターミナル からだと、一日に一本のみ、昌化鎮へ直行する都市間バスが運行されているらしい。出発時間は正午 12時ごろで、夕方 16時ごろに現地到着という(34元)。昌城村内では三輪バイクタクシーがたくさんあるので、移動も便利だ(5~10元)。

昌化鎮

当地に残る昌化県古城は観光地となっており、比較的、見学は簡単だった。

隋代から続く旧市街地は、実に 1400年以上もの歴史を誇り、城壁の 基礎土塁、外堀跡などの城郭遺構が、今も残る。また郊外には、趙鼎衣冠冢、治平寺碑、南門園墓群、峻霊王廟遺跡 など、多数の見どころが点在している(上地図)。

昌化鎮

昌化県古城の見学の際は、峻霊王廟遺跡と南門園墓群も、あわせて訪問してみる。
そのまま白タクをチャーターし、南側の新城村へ移動して(下写真)、ここで治平寺碑を撮影してくる。さらに南下し、旧県村まで送ってもらうことにした。

昌化鎮



昌江県の 県都「石碌鎮」から 50 km西に位置する昌化鎮であるが、かつて、この地には 2か所の県城が開設されていた。なぜ、2100年もの間、当地が中心都市として君臨できたかというと、海南島第二の長さを誇る 大河「昌化江」の河口部に位置したことに関係がある。黎母山林区に水源を発する昌化江は、古くから海南島西部における、主要な水運ネットワークの主軸を成し、流域人口の増加と、島内外の経済交流の進展により、その河口部には自ずと、人、モノ、カネが集積していったわけである。

最初に県城が開設されたのが、前漢時代の紀元前 110年築城の 至来県城(今の 昌化鎮旧県村)であった。周囲の 儋耳県(今の 海南省儋州市三都鎮旧州村)九龍県(今の 海南省東方市感城鎮入学村)と共に、儋耳郡に属した(末尾の地図参照)。残念ながら、当時の城郭の規模や全貌に関する情報は全く残っておらず、完全に不明という。

二つ目は隋代後期の 607年に、今の昌化鎮昌城村に開設された昌化県城である。この時代、昌化江の流域には、吉安県(今の昌化鎮の北東部に位置した。 607年同時に開設されるも、唐代初期の 622年に昌化県に吸収合併される。 627年に復活されるも、760年に完全廃止となった)と、昌化県の二県が設置されており、隋代と唐代は、昌化江沿いに 2行政府が同時開設されるという、最も隆盛を極めた時代を迎えていた。

時は下って明代初期の 1392年、千戸・俞覬がこの昌化県城を大規模改修すべく、レンガ積み城壁の建造に着手するも、さまざまな理由から、途中で土壁だけの城壁に変更されることとなる。
1411年に倭寇が昌化県城を襲撃すると、昌化県城の城壁整備が再開されることとなり、全長 1,948 m、高さ 6 m、厚さ 5 mのレンガ積み城壁が完成を見る。城壁上には凹凸壁が 550か所、兵舎 18棟、城門 4か所(東門=启展門、西門=鎮海門、南門=寧和門、北門=寧武門)が配置されていた。1420年代前半には、昌化県指揮の徐茂により、 4城門上すべてに楼閣が増築される。下絵図。
続いて 1445年、昌化県長官の周振が、城壁の補強工事を進めつつ、その外周に深さ 1.7 m、幅 5 mの外堀を掘削する。

しかし、昌化県城は、もともと 山(昌化大嶺と呼称されていた)を背に、北面を海に面して設計されていたため、明代、清代を通じ、幾度も台風による高波と洪水被害を受けることとなり、その都度、損壊と修繕工事が繰り返されるのだった。特に明末の 1629年、県長官の張三光により、大規模な再建工事が手掛けられたことが記録されている。

昌化鎮

時は下って日中戦争時代の 1941年、当地に進駐した日本軍の一部隊が古城に入城してくると、軍事目的のため、昌化県城の西門と北門を封鎖し、新たにトーチカを城壁上に増設することとなる。

日本軍の撤退後、県役所が別へ転出されると、城壁は久しく補修が放棄され、城内は無法地帯と化したという。城壁の石材やレンガ材などは地元民によってはぎとられ、現在、かろうじて城壁の 基礎土塁(全長 2 km、高さ約 6 m、厚さ約 5 m、城門の高さ約 3 m)が、正方形の原型のまま残るのみ、となっている。なお、土塁の一部には、レンガ片も残っている箇所もあるという。また、その外周を取り囲んでいた外堀跡は、往時のままの原型が見事に保存されている。

その他、昌化鎮内には、趙鼎(南宋時代の元宰相)衣冠墓、治平寺碑、南門園墓群、峻霊五廟遺跡などの名所旧跡が残されている。また、古城地区の南東 2 kmの地点には、昌化嶺と棋子湾があり、奇石が集まる景勝地として人気スポットとなっている。


 趙鼎衣冠墓
南宋時代初期、初代皇帝の 高宗(在位:1127~1162年)の治世下で、武闘派の岳飛らを重用し、華北の金王朝と対峙した 元宰相・趙鼎の墓所である。晩年に海南島へ左遷され、当地で死去し埋葬されたのだった。

趙鼎(1085~1147年)は、解州聞喜(今の 山西省運城市 聞喜県)出身で、 1106年に科挙最終試験に合格後、北宋朝下で 洛陽県 長官、開封 士曹(王都に勤務する役人人事を担当)などを歴任する。南宋朝が建国されると、尚書左僕射、同中書門下平章事、尚書右仆射、知枢密院事(副宰相)へと出世し、1135~1138年に宰相を務めることとなる。この間、一環して対金主戦論を唱え、 武闘派の 岳飛(1103~1142年)や 韓世忠(1088~1151年)らを支援し続けた。

しかし、1136~1138年の間、温州 へ左遷させていた和平派筆頭の 秦檜(1091~1155年。江寧府 ー 江蘇省南京市 出身)が、温州の士大夫らと関係を結び、再び中央政界で勢力を伸張して、次々と温州出身者を政権に登用していくと、金朝との長期交戦に辟易していた高宗により、趙鼎は宰相職を追われ、紹興府 長官へ左遷されることとなる。その後、さらに南方の 潮州府 へ飛ばれ、最終的に 1143年、海南島の 吉陽軍(今の 海南省三亜市崖州区崖城鎮) まで左遷されるのだった。ここで、自宅に引きこもる生活を 3年間続け、秦檜の政治的迫害に抵抗の意を示すも、1147年8月、食事を断って餓死してしまうと(63歳)、その遺体が昌化県下に埋葬された、というわけだった。

その場所が、現在の昌城郷旧県村の北側 300 mにある斜面上で、前面と右側はすべて田んぼで囲まれ、左側には道路が、後方は水路という一角である。埋葬された翌 1148年、遺体が掘り起こされ、王都・臨安城 の郊外へ移送されて正式に葬られることとなる(彼の死後、十年を経て、李宗が 2代目南宋皇帝に即位すると、趙鼎を豊国公に封じ、太博の称号を下賜している)。その搬出の際、彼が生前に身に着けていた衣や冠の一部が、この元の墓に残されたことから、以後、「趙鼎衣冠墓」と通称されるようになったというわけだった。
墓所は南向きに設計され、石碑「大宋状元内候宰相趙鼎公之墓」も添えられて、数百年もの間、毎年の清明節で当地の住民らが祭礼を取り行ってきたが、文革時代に破壊されてしまい、現在はわずかに黒色の石炭石製の墓標だけが残されるのみとなっている。


 治平寺碑
清代に昌化県長官だった陶元淳が、治世の安泰を祈願し、領民に訓示した文面を刻んだ石碑が、完全な姿で残っており、目下、昌城郷新城村で保存されている。石碑のサイズは、高さ 200 cm、横幅 80 cm、厚さ 10 cmという(下写真)。

昌化鎮

 南門墓群
昌化県城の南側にあった 小山(昌化大嶺)の斜面上に整備されていた、墓地遺跡である。かつて、この斜面方向に、県城の南門が立地したことから、「南門墓群」と通称されることとなったわけである。この清代に設置された墓地は、総面積約 2 km2に渡って広がっており、いずれもレンガと石材で組み上げられた、長瓮棺墓スタイルという。
多くは、歴代の昌化県長官や官吏、その親族らの墓で、比較的、裕福な人々であったこから、副葬品をねらった墓強盗が多発するも、現在でも土中から大量の副葬品、特に 大陶瓮、陶罐、小陶瓮などの陶器類が発掘されており、考古学的に高い評価を受けている。
なお、この昌化大嶺から海岸にかけて、さまざまに奇妙な形状の岩が群集しており、世にも奇妙な絶景が堪能できるということでも、有名な景勝地となっている。


 峻霊王廟遺跡
昌化県城の南側にあった昌化大嶺の南斜上に巨石が一つあり、その形状が頭に石の冠をかむる威厳正しい人間の姿に酷似していたことから、地元住民らの崇拝の的となり、地元で神山と称えるようになっていく。この地元神をまつる廟所がいくつも建立されていく中、現存するものが「峻霊王廟遺跡」としてある二か所という。

その一つが、今の昌城郷昌城村の西にある、宋代に建立された 廟所跡(面積約 500 m2)である。
かつては、どこの廟所も、壮観かつ精巧なデザインで設計された、色鮮やかなものであったが、現在はほとんど現存していない。この宋代の廟所跡も平地化されており、わずかに壁の基礎部分と屋根瓦の一部が残存するのみとなっている。しかし、この跡地から、明代、清代に派手に 装飾・彫刻された レンガ片、鉄香炉などの器物が発掘されており、往時の壮麗な姿を細々と今に伝えてくれている。

もう一か所は、昌城郷昌城村の北東約 800 mの場所にあり、 30年前に再建されたもので、その敷地面積は 1,200 m2ほどという。西北向きに設計された境内は、三部構成となっており、前面に門庭、中央に六角祭亭、後方に殿堂が配されていた。峻霊王神像は本殿に祀られている。
台風被害により、旧来の廟所が倒壊したため、1984年、臨高、儋県、昌江県の漁民らが寄付しあって、元々の場所に廟所を再建させる(1992年完成)。現在、昌江県政府により史跡指定を受けている。


 地元に伝わる伝承
前漢時代からの歴史を紡ぐ昌化県城近郊では、たくさんの神秘的な伝承が受け継がれており、その中でも、特に広く知られたものが「義婦玉嬌」エピソードという。
昌化県城は海岸近くに立地したことから、十年のうち九年は干ばつが襲い、人や家畜は飲み水に困窮する土地柄であった。こうして例年のように干ばつが続く中、明代末期に県長官を務めた人物が領民の生死を全く顧みず、兵士を派遣して城内にあったわずかな井戸を使用禁止にしてしまうと、黎族を中心とする領民らが一斉に武装蜂起し、官民双方ともに多数の死傷者出すこととなる。
明朝廷は混乱を鎮定すべく、この県長官に役人の人員削減を指示し、領民生活への圧迫を抑制させる処置を講じるとともに、より清廉潔白な官吏を新長官として現地へ派遣することを決定する。この人物が玉嬌の夫で、妻の玉嬌も同行し渡海してくるも、昌化港に上陸しかけたタイミングで、不幸にも 海賊・鯊猫らの一行の襲撃を受け、戦死に追い込まれてしまうのだった。

鯊猫はそのまま自ら昌化県長官に入れ替わってしまい、玉嬌をも妻に娶る。しかし、彼女は夫の仇を打つべく、また圧政に苦しめられる領民を解放すべく、秘密裏に湖湘桂総督の実兄に助けを求める。兄はこれを知ると、すぐに兵五千を派遣し、昌化城を攻め落とすと、鯊猫と賊兵らは悉く駆逐されてしまうのだった。こうして亡夫の恨みを晴らし、また海賊らの圧政を排除すると、玉嬌は自ら主導し、城内の民衆を動員して、36もの井戸を掘削させる。以降、領内では水不足問題が解消され、三年に一度のペースで発生してきた干ばつ被害を克服することができたという。



続いて、前漢時代の紀元前 110~前 46年まで開設されていたという、旧県村の至来県城跡を訪問してみる(下地図)。北の新城村から白タクで移動する他なかった。
先に旧県村の北はずれにある、趙鼎衣冠墓に立ち寄ってもらった。

昌化鎮

昌化鎮

旧県村で下車するも、2100年以上前の古城遺跡など全く現存するはずもない。
なお、もともと哥隆話族群の集落地があった場所に、前漢軍の駐屯部隊が進駐し、至来県の県役所を開設していたという。

とりあえず、昌化江の河岸まで移動し、ここから対岸にある 東方市 新街鎮、三家鎮、四更鎮などを見渡してみる。この対岸の西端の赤坎村に、珍しい 巨大石「赤坎鐘石」がある(下写真)。地元の村民によって神聖視されており、村の宝として崇められているという。

昌化鎮



紀元前 110年、至来県が新設されると、儋耳郡(郡都は 儋耳県城 ー 今の 海南省儋州市三都鎮旧州村)に統轄される。
なお、「至来」とは、地元部族の黎族の言葉を中国語に音訳したもので、もともとの意味は「竹の子」という。当時、このエリアは竹の子の産地として有名であったらしい。
なお、その県役所の具体的な開設地であるが、今の昌城郷旧県村のうち、昌化江の河畔から 1,000~2,000 mほど離れた場所で、平原のど真ん中に位置したという。城下からそのまま昌化江へアクセスでき、海へとつながっていたとされる。
昌化鎮

紀元前 82年夏、儋耳郡が廃止されると、至来県は 珠崖郡(郡都は 瞫都県城 ー 今の 海口市瓊山区龍塘鎮にある珠崖嶺城跡)に統括されるも、紀元前 46年春に珠崖郡を含む、島内すべての県役所が閉鎖されると、至来県城もその役割を終えることとなった(以後、海南島は、雷州半島側の合浦郡下の朱盧県を通じて、間接統治が図られることとなる)。



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