BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:2014年5月中旬 『大陸西遊記』~


湖南省 長沙市 開福区 ~ 市内人口 725万人、一人当たり GDP 全体 35,000 元 (郊外 20,000 元)


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  三国時代の 長沙城エピソード
  長沙城(臨湘県城)
  天心閣(長沙城の 城壁楼閣)
  長沙衛兵駐屯地 と 青少年宮、軍部の独占エリア
  反日デモ と 日系スーパー平和堂の今
  軍事科学大学の巨大門
  長沙市郊外に広がる、農村エリアの異様なリッチぶりの背景には ― ― ―



長沙市への移動だが、たいていは高速鉄道の利用か、長距離バスによるものかと思われる。高速鉄道の長沙火車南駅は、市街地と地下鉄で直結されており、とても便利である。長距離バスに関しては、街の東西南北に巨大な バス・ターミナルがあり、それぞれの方角からの往来バスが発着している。湖南省の省都だけあって、 便数が多く運行時間も長くて重宝する。

また、さすが 2400年もの間、湖南地域の中核都市の座に君臨してきただけあって、都市のスケールも桁違いだった。しかし、内陸部の宿命からか、大気汚染が激しく、空は真っ白ばかりの日々が続く。
市街地の中心部を縦断する湘江の対岸どうしが何も見えないぐらいの視界不良さだ。それでも、中国のどこの地方とも同じく、地元民らは夕方には屋外で運動や散歩に励んでいた。

また、驚いたことに、道路事情は非常によく、どの車もあまり猛スピードを出さない。落ち着いた運転環境である。
もちろん、路線バスもスピードを出さず、総じて安全運転が多い。相変わらずの急発進は多いけれども。また、信号での停車時では、アイドリング対策としてバス運転手はすぐにエンジンを切っていた。

市街区を走り回る バイク・タクシーも驚かされたポイントだった。すべてスクターだったのだ。こんな都市は中国で初めてだ。もはや、モータバイク形式ではなく、都市型スクターが普通というわけか。

なお、日本でも大きく報道された長沙市での反日デモによる 日系スーパーの平和堂 の 破壊(2012年9月16日)現場だが、それはまさに市街地のど真ん中であり(下写真左)、今日現在ではかつての混乱など微塵も気にしていない地元の買い物客でごった返していた。総合スーパー(かなり百貨店型に近いが)平和堂の建物には、 テナントとして スターバックス、マクドナルド、中国銀行なども入居していた(下写真右)。次なる反日デモが起こっても、もうこの一帯を群衆に取り囲ませることが、中国政府としても許容できない感じになっていた。

長沙市 長沙市


中華人民共和国の建国以降、日中戦争 を題材にした数多くの映画やドラマが制作されてきたが、特に、長沙攻防戦とその 戦勝(日本軍は作戦完了にともなう撤兵であったが、中国側は防衛戦成功として全世界に報じた)を描いたものは特に好まれている。長沙城壁は戦前、ほぼ完全な形でまだ残されていたが、戦争で相当な破壊が進んだようである。なお、長沙城のシンボルとして、今も保存されている 天心閣(長沙城の城壁楼閣の一つ)は、必ず映画の一場面に使われている。

夜には下写真のようにライトアップされる。この天心閣一帯は公園となっており、一部に城壁や土塁跡が見られる。

長沙市

さて、『三国志演義』では、劉備配下の関羽による 長沙城 攻略戦が有名である。曹操方に組して抵抗する長沙郡太守の韓玄が籠る 臨湘城(長沙城)に押し寄せた関羽が、黄忠との一騎打ちを演じる舞台であり、また戦後、黄忠が劉備に説得されて、配下に加わった地である。あわせて、魏延も正式に劉備の家臣となっている。
しかし、現実には長沙城攻防戦は行われていなかったようである。赤壁の 戦い(208年)の後、曹操軍は北へ撤退し、荊州北部の江陵城などの防備を固めることに専念し、荊州南部まで支援の手が回らない状況に陥る。呉の周瑜が曹仁の守る江陵城攻撃に 1年を費やす間に、209年、劉備軍が「呉軍のお手伝いをする」という名目で荊州 4郡(武陵、零陵、桂陽、長沙郡)を平定する。実際には、戦闘は行われず、4郡太守の 金旋、劉度、趙範、韓玄らはそろって劉備に降伏している。劉備により、彼らは引き続き、それぞれの郡太守に任命される(一時期、趙雲が桂陽郡太守に就いた)。

長沙市天心区の長郡中学校内に韓玄墓が残されている。かつて仕えた韓玄の死に際し、黄忠が城外にて墓を建てたとされている。つまり、三国時代の 臨湘城(長沙城)はもっと小規模のものであったことが分かる。

また、もう一人の主役である魏延であるが、彼は当初、荊州牧の劉表に仕えており、荊州に身を寄せたばかりの劉備とは、このときに対面していたようである。劉備殺害を図る蔡瑁一味と対立し、反乱を疑われて脱出し、長沙太守の韓玄を頼り、その客将となっていた。劉備により荊州 4郡が平定された後、荊州内の人材登用に力を入れる諸葛亮に見いだされて、黄忠とともに劉備配下の猛将として蜀でも活躍していくことになる。ちょうど同時期に、荊州 4郡より 龐統、馬良、馬謖などが登用されている



長沙市

上古地図は、清代末期の最大規模のころの長沙城の全体図。城域は相当に大きかったことが分かる。この面積を高さ 13 mの城壁が囲っていたとは。。。圧巻だっただろうな。。

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2011年、中国の大手デベロッパーである万達社が開発を手掛けていたマンション敷地から、宋時代の長沙城の外壁跡が発掘され、その場所が現在も保存され一般公開されている(下写真)。

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なお、上の古地図にある 長沙衛(湖南巡撫の役所) とその庭園跡であるが、今日では市街地にある青少年宮とその前のショッピングモール一帯がこれに相当する。敷地内には、庭園内に設置されていた亭が再建されている。その前は、県府坪巷という狭い路地街となっており、古い家屋が数多く残されている。

ちなみに、清代初期の 1664年に 偏沅巡撫(後の湖南巡撫)がこの地に移転されてから、清末までずっと当地にあったそうである。軍事部門を司る湖南巡撫の役所であるが、その敷地には東西に門が一つずつあり、東門は現在の青少年宮の正門部にあたり、西門は現在の中山亭付近にあったという。役所敷地内には数百の家屋が立ち並んでいたされる。また後に庭園も造成され、現在残る 双清亭、豊楽亭、澄湘亭も元々、この庭園内から移築されたものという。

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また、青少年宮の建物横には軍人専用区画があった(下写真)。清代の湖南巡撫の役所から続く軍部の独占エリアで、マンションやホテルを建設して、軍人らに便益を図っているようであった。青少宮の広場内には、青少年たちの共産党軍の賛美意識を高めるべく、清貧を体現する革命軍時代の 少年・少女像が建てられていた。その後ろには、軍人専用ホテルが見える。

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なお、下写真左は、この青少年宮の西側にあった中山亭。1930年7月に孫文を記念して建設された講堂らしい。塔の上に 4方向すべてに設置されている時計はドイツから輸入されたものという。長沙市の標準時刻を刻む時計台となっている。

下写真右は中山亭の西隣にあった、旧市街地に残る老舗肉まん店。
この 肉まん店「清泉閣(一時期、永向群飲食店へと改名される)」は、戦前から営業されているといい、今でも常に地元民らがごった返して肉まんを買っていたので、写真に収めてみた。

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中山亭を中心に東西南北に繁華街が広がっており、先に指摘した日系スーパーの平和堂は、中山亭のすぐ後ろに見えるビルである(上写真左)。
この繁華街を散策する途中で、そのショップオーナーのユーモアのセンスに感じ行って、ついつい写真を撮ってしまった店が二つ。
下写真左の「Hallo Tea」:ハローキティをもじた カフェ(中山路と 黄興中路との交差点付近)と、下写真右の「Sexy Tea」(解放西路と 黄興中路との交差点付近)である。
なお、さすが湖南省最大の都市だけあって、湖南省中の美人が集っている印象だ。二重瞼で 色白・小顔のモデル風体型の人が多かった。

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また、長沙古城より北方面へのバスに乗っているとき、万里の長城 風の堂々たる巨大門を発見した。下車してよくよく見てみると、ここは軍事科学大学の入り口だった。あまりに圧巻だったので、記念写真。ただし、正面から写真を撮ると拘束されそうだったので、ギリギリ、斜め横から撮影。
いちおう、門のところには、「軍事管理区」などと記されて、軍人らしい警備員が直立不動で立ってるし。。。

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なお、長沙市西部は劉少奇の故郷があり、多くの観光客が訪れる場所である。この付近を高速道路で通過している最中、あることに気が付いた。農村地帯の家屋がみんなリッチだったのだ!中国中のどの農村地帯の中でも、これほど見事な豪邸ばかりが点在する地は、ここだけであろう。メンツを大事にする中国共産党本部が、観光地帯となる長沙市西部の農村地域を、「いいように見える農村風景」として作り上げているのではないだろうか。
あまりに同じ造りの巨大邸宅が続くため、その人工的すぎる景観に、かなり興ざめと場違い感を持つのは筆者だけではあるまい(下写真)。

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