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訪問日:2015年 5月中旬 『大陸西遊記』~
隴西省 宝鶏市 渭濱区 / 金台区 ~ 両区内人口 100万人、一人当たり GDP 45,000 元(市全体)
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諸葛孔明の北伐 と 陳倉城
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陳倉城の眼前に広がる 秦嶺山脈と渭水
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陳倉城の柔らかい土壌 と 孔明のトンネル作戦
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古城跡を突き抜ける 運河(イヤ心配ご無用、誰も泳ぎませんから!)
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宝鶏県城(留谷城、【ニ代目】陳倉県城)
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大陸中国最大の 青銅器博物館
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大陸中国では珍しい、人懐っこい 宝鶏市民と優しい交通環境
【 三国時代の陳倉城跡 】
三国時代の諸葛孔明の北伐戦に際し、必ず言及される城、それがこの陳倉城である。
228年春、天水郡より西域の制圧を目論んでいた孔明は、結局、
街亭
での敗戦でその作戦変更を余儀なくされ、孔明率いる本隊はほとんど戦わずして漢中へ撤退する。なお、このとき、天水郡まで進出していた孔明本隊は姜維を獲得している。
そして、同年 12月、孔明はこの無傷の本隊を再出動する形で、第二次北伐を決行する。
その攻撃目標となったのが陳倉城であった。孔明率いる蜀軍の第一次北伐により、魏側も渭河沿いの各県城の防備力を補強させており、特にその重要拠点として陳倉城の防備強化が図られることとなった。このとき、陳倉城の南 2.5 kmにある高台にも 出城(後に陳倉下城と呼ばれ、陳倉本城は陳倉上城と通称された)が築城されている。
孔明は、散関道を通って
秦嶺山脈
を超え、渭水を渡河して、 石鼻寨(今の 宝鶏市陳倉区千河郷魏家崖)一帯に陣営を展開する。 ちょうど、東西の大河である渭水と南北の河川であった 千河(旧名は汧河)との 合流ポイントの高台あたりと推察される。付近では、孔明の敬称を とって武侯故城とも別称されてきたという。上地図。
しかし、郝昭と王生の率いる 1,000名余りの守備軍が籠城する陳倉城を、20日間かけて攻め続けた孔明も、 これら上下の陳倉城を落城させることができず、食糧が尽きたことと、魏軍の援軍が接近したことにより、 漢中への撤退を余儀なくされるのであった。
ちなみに、このとき、すでに第一次北伐で先鋒を率いた趙雲は病床にあったため、参加していない。
翌年、孔明は進軍ルートを改めて、武都郡と陰平郡を平定している(第三次北伐戦)。
下写真
は、かつての陳倉城跡地から南側の蜀方面を臨んだもの。
城の眼前には渭河が流れ、その先には急峻な
秦嶺山脈
が悠然と横たわる地形であった。
なお、この陳倉城であるが、その歴史は古く、紀元前 700年代前半に秦の 文公(在位:紀元前 765年~前 716年)が西域の山岳民族らとの交戦の最前線基地として築城してから、孔明の頃まで既に 1000年近い月日を経ていた古城であった。秦による築城当初は、「千渭の滙」と呼称されていたらしい。後に戦国時代に入り、陳倉県役所が開設されて以降、陳倉城となっている。
陳倉城はまた、秦滅亡後の楚漢戦争に際し、劉邦により大将軍に抜擢された韓信が華々しい初陣を飾った地としても有名である。蜀の桟道を昼夜を徹して再整備し、未だ戦闘体制の整っていなかった陳倉城を電光石火のごとく攻略したのである。
諸葛孔明においては、魏軍が十分な防衛体制を構築し終えていたことと、良将の郝昭が守備を担っていたという背景から、
攻城
は失敗することになってしまうのだが。
この陳倉城は、孔明の第二次北伐戦以外でも、度々、三国志に登場してくる。
188年、西涼の馬騰と 韓遂、王国の連合軍が陳倉城を攻撃するも、後漢朝廷は皇甫嵩と董卓に 4万の兵力を 与えて防衛させる。結局、西涼の連合軍は攻撃をあきらめ、翌年 6月に全軍撤退する。その 退却中に追撃を受け、王国が戦死している。馬騰と韓遂はそのまま隴西エリアまで逃げ切っている。
また 194年、前年の大嵐で壊滅的な打撃を受けていた陳倉城に対し、再び、隴西から馬騰と韓遂が再侵攻する(上地図)と、192年から長安城を占拠していた李催と樊稠は、長平観(現在の
咸陽市
涇陽県の南西部)の戦いで西涼軍を大破する。 勢いに乗る樊稠が陳倉道上を逃走する韓遂を追撃するも、同郷の友として旧友を温めあい、 談笑して見逃す逸話は有名。
時は下って、211年、馬騰の長男であった馬超が西涼軍を率いて、父の落とせなかった陳倉城 を投降させ、
長安城
を包囲する(結局、最後まで落城せず)。そのまま関中盆地の東端の
潼関
で曹操軍と 対峙するも、敗退してしまう。こうして曹操軍は初めて関中盆地を手中に 収めたのだった。曹操はさらに夏侯淵を派遣し、西涼軍を西部まで追い詰める作戦に出る。
214年、夏侯渊と張郃が陳倉城から出陣し、馬超と氐族や羌族らを
祁山
まで 追い詰める。馬超、氐族、羌族らは大敗を喫し、再起不能となるに至り、漢中の張魯へ投降する。
219年の
定軍山
の戦いの後、同年 5月、漢中から撤退する曹操は、曹洪と張郃に陳倉城を 守備させ、対劉備の最前線基地としている。
西晋朝の治世時代の 277年、イナゴが大量発生し、草木や牛馬の毛、食糧など全て食べつくしたと記録されている。
さて、現在の陳倉城跡地を歩いてみるとよく分かるが、地質はすべて乾燥土で構成されているようで、陳倉城攻めの折、諸葛亮がトンネルの掘削工事を進めたとされるが、土壌自体が柔らかいもので、納得がいった。これが日本によくある岩盤式の高台だったら、不可能だったであろう。武田信玄が甲斐の 金堀衆(金山の鉱山夫)を呼び寄せて、野田城の攻略を図ったとはわけが違う容易さと言える。
かつての陳倉城は、この乾燥土の崖山にたくさん見られる土壁層をうまく延伸させて、城壁を建造し、この高台の斜面に城郭都市を構築していたのであろう。
現在でも、土壁にたくさんの洞窟が見られる(下写真)。かなり深いものも多く、倉庫や一時休憩所用に使用していた様子である。今はほとんどが封鎖されていた。つまりは、それだけ土壌の掘削が容易で、かつ強度も一定に保たれるものであったのだろう。
このような乾燥質の土壌には、
水攻め
が合いそうだが、高台という地の利が効果的に作用していたわけである(下写真左)。
現在、古城跡の敷地には、運河が東西に通っているが、高台にもかかわらず、水が存在し得るということは、地下水脈は結構、浅いところにあるようで、城郭都市時代も井戸水には困らなかったであろう(下写真右)。
なお、この運河に、「水深が深いので、遊泳、釣りは厳禁」という立て看板が掲示されていた。「いや、心配いらない、誰も泳ぎたいとも、魚釣りしたいとも思わないぐらい汚い ドブ川だから」、と突っ込みたくなった。
なお、この陳倉城であるが、隋代の 614年に陳倉県役所が今の宝鶏市中心部の
宝鶏県城(留谷城)
へ移転されて以降、廃城となる。今では完全にその古城跡の欠片すら分からなくなってしまっている。
ちなみに、この崖山沿いの一帯には、たくさんの祠堂や廟所が設置されていた。昔から、神の宿る丘として崇められてきたのであろうか。陳倉城のすぐ東には、霊泉寺というロ-カル寺院があった(上写真左)。せっかくなので登ってみたら、ヤギが参道にいた。。。。というか、これから移動することになる宝鶏市の田舎方面でも、ヤギをよく見かけた。乳ヤギとして飼育されているようだ。首輪をつけて、犬の散歩ならぬ、ヤギの散歩をしている好々爺も目にした。。。。
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交通アクセス
宝鶏鉄道駅からバス ①番、⑮番で、バス停「代家湾」まで行く。ちなみに、①番バス、⑮番バスは 2元。 15K番は快速バージョンで、3元。
ここから 山側(今の 宝鶏市金台区代家湾一帯の高台)へ移動する。少し戻って、直線で山側まで続く路地がある。ここから、一本入った商店街を通り、さらにマンション群の後ろを巡るように鉄道の線路を目指すと、上に高架道路がある。その線路沿いにトンネルで反対側へ渡れる場所が数カ所あるので、ここから道なりに斜面を登っていく。
【 宝鶏県城(陳倉県城【隋唐代】、留谷城) 】
さて、566年の北周時代に築城された留谷城であるが、隋代の 614年に、それまで東側にあった陳倉県城が廃城となり、この地に県役所が移転され、陳倉県の中心都市として発展を遂げるようになる。唐代の 757年には陳倉県から宝鶏県へ改名され、今日まで継承されることとなった。
中山街と紅旗街との交差点が、昔の 東門跡(上写真左)。ここからぐるっと古城エリアを視察する。 南関街と中山街が交わるあたりに南門があった。
現在、この南門跡の付近は、相当に古い高層住宅が立ち並ぶ(下写真)。
背後に広がる高台の一部で、出っ張た箇所を利用して城郭都市を設置していたようである。南側はそのまま絶壁、もしくは急斜面で、 直下に渭河が見渡せたに違いない。今でも急な階段が続く高低差がある(下写真左)。
北側には運河があった(下写真右)。旧陳倉城まで続く運河である。
西門は ①番バスと ⑦番バスの終点となっている一帯である(長青路、下写真左)。
二代目「陳倉県城」(留谷城、宝鶏県城)であるが、 かなりこじんまりした、長細い城郭都市であったようである。下写真右は、かつて 陳倉県役所、宝鶏県役所が開設されていた通りと見られる(市府巷)。
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交通アクセス
宝鶏鉄道駅の西隣の道路沿いに線路の裏手へ回り、そのまま西へ直進すれば旧古城エリアにたどり着く。徒歩で 10分。
もしくは、駅前の 東西大通り(経二路)から ㊱番バスで、終点の西関まで移動してもOK。
【 宝鶏市渭濱区・金台区の概要 】
咸陽市
バスターミナル → 宝鶏高速バスターミナル(市内東側面)、41元。所要時間、一時間半(西へ 120 km)。
咸陽市
と西隣の興平市との間に、唐代中期の 755年11月、楊貴妃とその父の楊国忠が処刑された馬嵬駅の近くを通過する。有名な観光名所らしく、大きな看板が見えた。
なお、東側から到着する宝鶏市高速バスターミナルは駅前の繁華街から随分と離れているが、路線バス㉝ に乗って(1元) 15~20分ほどで、宝鶏市中心部に到着する。「新建路」沿いの「文化路南口」というバス停で下車して、そのまま北へ向かえば、宝鶏鉄道駅である(下地図)。
宝鶏市
の市内バスも、基本は 1元だが、
渭河
を渡って対岸方面へ移動するバスは、1.5元となる。また、陳倉区へ行く ⑮番バス(各停)は、2元である(快速便の 15Kは 3元)。どのルートも、バスは 5分に一本、運行されており、非常に便利である。
また、対岸にあった 青銅器博物館(1956年創立で、大陸中国で最大の青銅器展示スペースを誇る。 青銅器文明が全盛であった西周王朝と秦の発祥の地ということで、当地が選定されたらしい)は、もはや、その本来の意味を忘れて、完全にテーマパークと化していた。バーやレストランが立ち並ぶ、遊興施設である(上写真)。
また、向かいの渭河には吊り橋だの、派手な屋根付き橋など、いろんな趣向が凝らされていた(上写真)。
なお、青銅器博物館の下を通る道路は、石鼓トンネルという名前で渭河をくぐっており、なぜに橋ではなく、トンネルにしてみたのか不思議だった。
宝鶏市
の最も大きな繁華街は、駅前の東西に走る 道路(経二路)の一帯にある。駅前には巨大デパートがある。下の写真では伝えきれないが、相当にでかい建造物。経二路沿いには、米系の ピザハット、マクドナルド、KFCもあった。また、日本食屋は「京都屋」という回転寿司屋も見つけた。店内を覗いてみたが、客は誰もいなかった(歩道橋のすぐ下、道路北側沿い)。もう一つ、テイクアウト形式の寿司屋も付近にあった。
下写真は、宝鶏駅方面から旧陳倉城跡方向を臨んだ様子。
ここ宝鶏市の人は会話を笑顔で話すことが多く、とても人なつっこいことが分かる。都会化している咸陽市とは大違いだった。
最後に、宝鶏市内の交通事情は大陸中国では珍しく、非常に安全である。それを如実に物語っていたのが、タクシーやバスにおける女性運転手の比率だった。10%前後は女性であったと思う。
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