BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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貴州省 遵義市 ~ 人口 615万人、一人当たり GDP 27,000 元


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 遵義県城(羅蒙県城、播州城)
 海龍城



【 遵義市の 歴史 】

桐梓県の岩灰洞にある旧石器時代の遺跡からは、20.6~24万年前に生息していたと考えられている猿人類の歯型が発見されており、 さらに、同じく桐梓県馬鞍山にある新石器時代の遺跡からは大量の石器や骨器が発見され、 すでに 1.8万年前に火を使った生活が営まれていたことが確認されている。 また、赤水河の流域にある赤水市と習水県の県域内では、多くの石製器具が出土しているという。

紀元前 8世紀~5世紀前後の春秋時代、遵義市一帯は 牂柯国、巴国、蜀国、鼈国、鰼国などの豪族政権が割拠する地域となり、 支配者が目まぐるしく変わっていたようである。現在の遵義市中心部である紅花崗区は、主に鼈国の支配下にあった。 戦国時代に入ってからは、一帯すべてが大夜郎国の領土下に組み込まれる。

遵義市

秦国により中原が統一されると、始皇帝はさらに 雲南、華南一帯への領土拡大策を取り、 順次、占領地に郡県制を導入して、中央集権体制の確立を図る。夜郎国の領土も削り取られることとなり、 紀元前 220年、現在の遵義市旧市街地に 鄨県役所(鄨古城跡)が開設される。

前漢王朝時代の紀元前 135年には犍為郡が新設され、 当初、その郡役所は鳖県城内に開設された。しかし、紀元前 130年に郡役所は 南広県城(今の 雲南省鎮雄県)へと移転される (後漢時代の 86年には、今の四川省宜賓市の中心部にあたる僰道城へ再移転される)。 紀元前 111年、南越国との関係断絶をねらって前漢王朝の武帝が 貴州・雲南方面に勢力を張っていた 且蘭国と夜郎国に接近してくる。これに対し、且蘭国は南越国と反漢同盟を遵守し、 犍為郡都の鼈県城を攻撃して太守を討ち取る。この反漢勢力の切り崩しを進めるべく、大軍が 貴州・雲南方面へ派遣され、 且蘭国はあえなく滅亡する。 最初、敵対姿勢を見せていた夜郎国もすぐに前漢朝に帰順する。 こうして、250年間、独立を守ってきた夜郎国も終焉し、その王族は夜郎国王と夜郎県令に封じられることとなる。 貴州一帯には 牂柯郡(且蘭県城が 郡都、17県を統括)が新設され、その夜郎県もここの管轄下に入った。 ちなみに、遵義市一帯も牂柯郡に帰属される。
その後、後漢から三国時代まで 牂柯郡(蜀の統治時代、 劉備の死に便乗し 呉に帰順した 南蛮・南中の 諸郡・部族らが反乱を起こした際、牂柯郡太守であった朱褒も呼応して決起するも、 馬忠の率いる討伐軍により追放される。そのまま馬忠が郡太守となる)が継承される。 東晋時代の 331年、牂柯郡は分割され、牂柯郡と 平夷郡、平蛮郡の 3郡となり、鼈県城は平夷郡の郡都となる。

遵義市

唐代初期の 639年、隋代の郎州が播州へと改名され、江南道の下にあって、 今の黔北の大部分を管轄するものとされる。播州の名称は、後の五代十国時代~宋朝時代、 さらに元代から明代末期にかけて使用され、実に 962年間もこの地の地名として定着していたため、 今日でも遵義市を「播州」と呼称する習慣が残されているという。
また、唐代の 642年、播州の管轄下にあった羅蒙県が改名され遵義県となる。 以後、「遵義」の地名は今日に至る 1400年近くも使用されることとなる。

唐朝末期の全国的な混乱期にあたる 876年、地元豪族であった楊端が 部族集団を率いて、白錦堡という 要塞集落(現在の遵義市の南 15 kmにある遵義県の中心部)を築き、半独立の自治を始める。 中原はこの後、唐王朝の滅亡から五代十国という戦乱期に入り、 この地域への中原勢力の干渉が弱まる。その間に、この地元豪族の楊氏の世襲統治体制が確立されていったようである。
しかし 1108年、時の楊氏家の当主であった楊光栄と楊文は、 中原を統一した北宋王朝へ帰順の意を表明し、宋朝はこの地に播州の下、遵義軍という役所を設置する。 その長官はもちろん楊氏が担当することとされた。
1126年に華北を金に占領され、長江以南で南宋が建国された後の 1176年、 楊氏 12代目当主であった楊軫将により、本拠地が白錦堡の要塞集落から、穆家川の河岸地域へ 移転されることとなる。秦代からの中心都市であった鄨古城跡が拡張工事され、現在に残る遵義市旧市街地の原型となるわけである。 楊氏はこの宋代に続いて 元代、明代末までの 725年間、播州一帯の土司として中央王朝に冊封され世襲統治していくこととなる。

遵義市

明代も末期になると、 各地で反乱が起こるようになる。この播州の地でも、地元の世襲豪族であった楊氏の 当主「楊応龍」と付近の 苗族らが呼応して、貴州一帯で反乱軍が立ち上がる。これが、1600年の 播州の役(楊応龍の乱)と呼ばれるものであるが、 翌年にも平定される。この後、当地の楊氏による土司制度は完全に廃止され、地盤であった播州自体も解体の上、 遵義軍民府と平越軍民府の 2つに分割され、それぞれ四川省と貴州省に分かれて帰属されることとなる。

ちなみに、 この楊応龍の乱では日本軍と朝鮮半島で戦った明将軍である 劉綎(りゅうてい)や 陳璘(ちんりん)も参加した。特に、劉綎は朝鮮の役で捕虜とした 日本軍(降倭)の兵士を複数、 傘下に加えて参戦しており、その火縄銃や大砲等の火力を活かした部隊編成がこのとき威力を発揮したとされる。

上の写真は、楊応龍が最後に立てこもった 海龍城跡(遵義市正安県)。


清代に入っても、基本的な統治制度は明代のものを踏襲される。 ただし、名称のみ変更され、「軍民」の二文字が消去されて、それぞれ遵義府と平越府となる。 このとき、今の遵義市域の大部分が遵義府と平越府に帰属され、またその他の地域は石阡府と思南府の管轄下に入った。 1727年、遵義府が四川省から貴州省へと移籍される。
清滅亡後に成立した中華民国により、1913年に府制度が廃止され県制度へと統一される。 その後、貴州省下の第五行政督察区となり、1949年11月に遵義専区、さらに後に遵義市へと改編されて今日に至る。

遵義市

なお、南宋時代に築城された遵義古城であるが、 現在は完全に城壁、城門は撤去されてしまっており、全く何も残されていない。 路地名にわずかな記憶が感じられるのみである。南門村、西門町、官井路、楊柳街、遵義老城新街、洗馬路、南門居社区 など。


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