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周口市
訪問日:20--年-月-旬 『大陸西遊記』~
河南省 周口市 ~ 人口 883万人、 一人当たり GDP 21,000 元
➠➠➠ 周口市の 城跡リスト ➠➠➠
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陳県城 (陳国の王都:宛丘城跡、陳勝・呉広の乱の 本拠地、陳郡城、淮陽県城)
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項県城(項城県城、【第2代】陳郡城、宛丘県城)
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臨蔡県城
【 周口市の 歴史 】
西周朝を建国した武王により、胡公の虞満が陳侯に封じられ、周王朝下の 12大諸侯の一人として君臨することとなる。現在の周口市一帯もこの陳国の版図下に組み込まれた。
なお、この虞満であるが、夏王朝を建国した舜帝の 33世代目にあたる子孫である。 虞一族が歴史にその名を現したのは、夏王朝の 2代目国王となった禹帝により、初代国王の舜帝の子であった商均が虞国王に封じられ、一諸侯となった時である(下地図)。この後、 虞国は時に廃止され、また時に復活を繰り返した。商(殷)朝も末期のころ、虞満の父であった 虞閼父(別名:瘀父、遏父)が周国に帰順し、周の朝廷内で官職を賜ることとなる。
紀元前 1046年に牧野の戦いが起こり、周国の武王が 商(殷)王朝を滅ぼすと、西周王朝が成立する。武王はその功臣や皇族らに各地の土地を分与し、諸侯に封じる。このとき、虞満による陳国が誕生することとなった。 虞満は武王の長女である 大姫(太姫)を妻にめとり、諸侯の中でも一段上の地位に遇された。
この直後から、虞満は陳国王都の 宛丘城(今の 周口市淮陽県)の築城に着手する。 高さ 7 mの城壁は全長 5 kmにも及び、城域は方形に設計されたという。東西南北に 4つの城門が設けられ、それぞれの城門は 3重構造を備えられていた。土壁の城壁の周りには、水堀がめぐらされていたという。
その陳国も、春秋時代末期の紀元前 479年、南の 強国・楚の恵王により滅ぼされる。 以後、楚領下で、王城(宛丘城)跡に陳県が新設されることとなった。楚に併合された陳国の人々が後に陳姓を名乗るようになったと言われる。
戦国時代後期の紀元前 280年、秦国の白起に攻められ、楚は大いに領土を失い、 紀元前 278年には 王都・郢までもが陥落してしまう。国難に直面した楚の 頃襄王(熊横)は、王都を陳城へ遷都する(2番目の王都:下地図)。
最終的に、その楚も紀元前 223年に秦国により滅ぼされるに至る。秦代も、引き続き、陳県が設置された(当初は豫州下の潁川郡に、後に陳郡に所属)。
紀元前 210年に秦の始皇帝が死去すると、中央政界にほころびが生じ、各地で反秦を掲げる農民、軍閥勢力らの反乱が勃発するようになる(下地図)。
紀元前 209年には、中国初の農民反乱とされる 陳勝・呉広の乱がこの陳県城で発生し、一帯を支配下に収めるまでに強大化する。そして、かつての陳国の版図を基に、張楚政権を樹立する(首都は陳県城)。
しかし、秦の大将軍に任命された章邯により、陳勝らの反乱軍は平定され、各地の軍閥勢力らも掃討されていった。
最終的には項羽軍により、章邯らの秦の主力部隊も撃破され、紀元前 206年に 王都・咸陽が徹底的に破壊されることで秦王朝は滅亡に至る。
前漢時代の紀元前 196年、劉邦により 淮陽国(陳郡、沛郡、潁川郡を束ねた)が新設される。淮陽の名は淮河の北側に位置したことに由来する。王城は陳県城内に開設された。
この頃、猜疑心にかられた劉邦は、異姓という理由で韓信ら功臣を次々と粛清し、代わりに 燕国、代国、趙国、斉国、梁国、楚国、淮南国、淮陽国、呉国へ、自身と同姓の部下らを諸侯王として封じていくこととなる。このとき新設された淮陽国もこの 9か国の一つに含まれた。下地図。
王莽の新朝時代には、淮陽国は新平へ、陳県は辰陵県へ改称された(兖州に帰属)。
後漢朝 2代目皇帝・明帝の治世時代、新平が淮陽国へ、4代目皇帝・和帝(劉肇)の治世下の 88年には、淮陽国は陳国へ改名される(豫州刺史に属する)。
三国時代期には魏領下にあり、陳県城は陳郡の郡都とされた。魏 2代目皇帝・明帝(曹叡)は、叔父の 曹植(192~232年)を陳王に封じ、陳国を建国させている。後に廃止され、豫州下の陳郡に戻された。
255年、魏の功臣であった毌丘倹と文欽が本拠地の寿春城で、司馬師の専制に対し反乱を起こす。その際、その軍勢が 項県城(今の 周口市沈丘県槐店回族鎮の西郊外)に一時駐屯した。最終的に毌丘倹は処刑され、文欽は呉へ亡命することで鎮圧される。
西晋朝を建国した司馬炎は、叔父の司馬彤を梁王に封じ、梁国(陳国から改称)を新設させる(上地図)。このとき、豫州の州役所は項県城内に開設されており、その管轄下で陳郡陳県も配された。
なお、八王の乱の平定戦で功績を挙げた司馬越は、西晋朝の最後の皇帝となった懐帝を擁して朝廷を牛耳るも、最終的に反目した懐帝から追討軍を差し向けられ、項県城内(今の 周口市沈丘県槐店回族鎮の西郊外)で病死することとなる(311年)。 その直後に永嘉の乱が勃発し、懐帝もまた処刑され、西晋朝は崩壊した。
下地図は、永嘉の乱の直後、西晋朝を滅ぼした劉聡らの勢力図。華北では早くも 五胡十路国時代が始まりつつあった。
南北朝時代の宋朝の治世下、陳郡の郡役所が 項県城(同時に項城県へ改名)へ移転される。陳郡の郡都となった。
斉朝の時代、南陳県が新設される(豫州下の陳郡に所属)。
北魏が南朝側より黄河流域一帯を奪取すると、陳県は廃止され、その行政区は 項県(今の 周口市沈丘県槐店回族鎮の西郊外)へ編入された。
北斉の治世下、項県の県役所がかつての陳城へ移転される(北揚州下の信州に帰属)。北周は信州を陳州へ改称する(このとき初めて陳州の名が使用された)。
隋代には、項県が宛丘県へ改称される(豫州下の陳州淮陽郡に所属)。
唐代には、宛丘県から新平県が 分離・新設される。
五代十国時代、陳州、忠武軍節度使、鎮安軍節度使の管轄下に置かれた。
北宋時代、宛丘県は 陳州淮陽郡(後に淮寧府へ昇格)に統括された。
金代、元代もこの行政区が継承される。明代に入ると、宛丘県が廃止され、陳州(陳城)に吸収合併される(開封中書省に所属)。
明代(下地図)、清代に入ると、周家口は華北地方と江南地方との物流交易の要衝として大発展を遂げることとなる。当時、周口市一帯は河南エリアの 4大商業都市の一つとして名を馳せた。
明代初期、沙潁河沿いの水運交易をベースに発展が始まり、最初の集落地が沙河の北岸に形成され出す。以後、集落地は徐々に南岸側へ拡大されていった。南北両岸の集落地の交通をスムーズにすべく、周という姓の集団が南岸の 子午街(今の川滙区老街)に最初の船着き場を設置したことから、周家口という地名が起こったという。
明王朝 3代目皇帝・永楽帝の 治世下(1573~1620年)、賈魯河の運河が完成し、周家口の南側は長江や淮水へ直接つながるようになり、北通山の山裾一帯は重要な積み荷の集積地へ整備されていった。
安全な河川交通ルートを確保すべく、清代初期の 50年間、賈魯河の川底は何十回にも及ぶ掘削工事が進められる。これに伴い、清朝中期には、周家口鎮の繁栄ぶりは飛ぶ鳥を落とす勢いとなる。 16箇所もの船着き場、116もの街道を有し、常時、居住人口を数万人も抱えつつ、その流動人口は数十万人に達する盛況さであった。
周家口鎮を管轄した陳州は 1724年、直隷州へ昇格され、域内の 4県を統括した。
一方で、清代中期から、大陸の南北交易において、海運が河川交通に取って変わるようになる。 さらに 1843年、黄河の中牟あたりで土砂が堆積し、賈魯河の河川交通も滞るようになり、賈魯河を北上して開封へ至る交易ルートの命脈が尽きることとなった。以後、かつての水運レベルは回復を見ることはなく、周家口鎮の交易上の立地メリットは徐々に失われていった。
清朝も末期となると、中国各地で農民反乱の戦火が勃発し、周家口鎮にも戦火が波及し、多くの伝統的な建築物などが被災したという。
こうした中で 1901年、京漢鉄道が全面開通する。当時、行政の中心都市であった 陳州(陳城:今の周口市淮陽県)から、西へ 20 kmのところにある漯河沿いに鉄道が敷設されたことにより、さらに多くの商人らがこの周家口鎮一帯に移り住むようになる。 こうして現在の周口市一帯における、周家口鎮の中心都市としての地位は不動のものとなった。
日中戦争初期の 1938年6月、中国国民党による 黄河決壊事件(花園口決堤事件)が起こされ、黄河以南の河南 3省は甚大な被害に見舞われる。日本軍と付近の住民らによる懸命な土木工事が進められ、最終的に賈魯河に沿って潁河を南側へ移動させることで治水に成功する。上地図。
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