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訪問日:2014年5月上旬 『大陸西遊記』~
広東省 中山市 ~ 人口 315万人、 一人当たり GDP 88,000 元
➠➠➠ 中山市内の 城跡リスト ➠➠➠
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香山県城(香山寨)
【 中山市の 歴史 】
中山市の古称は「香山」というが、この地に多く咲いていた神仙花にちなんで命名されたとされる。
今から 5000年以上前の新石器時代は海岸線がかなり内陸部まで入り込んでおり、中山市域は珠江の河口に浮かぶ島嶼を成す場所であった。この島々に居住して、狩猟漁業生活を営んだ人々の遺跡が市内各所で発掘されているという。 特に、南朗鎮にある龍穴遺跡では新石器時代から春秋戦国時代の沙丘遺跡が発見されており、 その中には青銅器や銅製の食器類が見つかっているという。すでに中原の漢民族との交易が行われていたことが実証されているそうだ。
紀元前 214年、秦の始皇帝により百越の地とされた嶺南地方も武力併合され、翌年に導入された郡県制において、中山市域は南海郡番禺県下に帰属されることとされた。
秦朝末期の戦乱の最中、趙佗により南越国が建国され、中山市一帯もこの版図下に組み込まれる。
しかし紀元前 111年、前漢朝 7代目皇帝・武帝により南越国も滅ぼされ、引き続き、南海郡番禺県の下に置かれた。この秦代から漢代の時代、まだまだ原住民であった南越人が圧倒的多数の地域で、 漢民族らの移住は遅々として進まなかったとされる。
後漢末の三国時代、中山市域は呉の領土下に入る。
西晋朝時代に華北を中心に八王の乱が勃発し、多くの避難民らが中原から華南地方へ流入してくる。その一部が、当時、まだ海上の 島嶼(香山島など)を成すだけであった 中山市域にも住み着くようになったという。
東晋時代の 331年、南海郡の一部が分離され、東官郡(郡役所は 深圳市の南頭城)が新設される。中山市域もこの東官郡の管轄へ移籍される。
同じ南北朝時代、劉宋朝の治世下の 420年、東官郡は 東莞郡(郡役所は 東莞市の東莞城へ移転) へ改名される。南北朝時代が統一された隋王朝初期の 590年、中山市一帯は宝安県の管轄下に組み込まれる。
唐代の 757年、宝安県はさらに東莞県へと改名される。すでに盛んであった塩田事業を管理するため、唐朝により官府や兵士の駐屯所が、文順郷(今の 珠海市香洲区内の山場村内)に開設される。東莞県が監督を担当した。
北宋時代の 1082年、唐代から続いた文順郷が拡張され、香山寨という環濠集落へと改修される。 引き続き、東莞県下に置かれた。
南宋時代の 1152年、香山寨(香山鎮)が発展して、広州府下の香山県へと昇格される。あわせて、県役所が 仁厚郷(現在の中山市中心部の石岐区内)へ移転されて、県城が新たに築城されることとなる。2年越しの工事の末、完成を見る。当時は、鉄城とも別称されるほど、堅固な城壁となったという。香山県城はその行政区下に 10郷を管轄するものとされた。
南宋末期、宋皇帝の端宗がモンゴル軍の追撃を受け、香山方面へ落ち延びてきた関係上、崖山の戦いで皇帝が入水自殺を遂げた後、生き残った皇族や官吏の末裔らがこの香山一帯に住み着くようになったとされる。
明代、香山の北部一帯の海岸線が後退していき、次第に広大な陸地が姿を現すようになる。
清代には、珠江三角洲の一帯に徐々に堤防や街道が整備され出し、香山県城の周辺は豊かな農地へと開墾され、広東省でも屈指の農業生産高を誇る地域へと変貌していくことになる。
辛亥革命を成功させ、中華民国を建国した 孫文(1866~1925年)の出身地ということもあり、 孫文の死から一か月後の 1925年4月15日、香山県が中山県へと改名される。その後も所属行政区が度々代わりながら、ようやく 1988年1月7日に、現在の中山市制が開始されることとなった。
なお、南宋時代の 1154年に築城工事が完成された香山県城跡であるが、今日では全くその面影は残されていない。わずかな路地名が旧市街地であった名残を醸し出すのみである。東南門商城、白水井大街、天門新村、天湖上街(かつての北側の堀川跡)など。
当時は城門を 4つ有し、それぞれ 啓秀門(東門にあたり、今の月山公園一帯にあった)、阜民門(南門にあたり、今の民生路と民族路の交差点付近にあった)、登瀛門(西門にあたり、今の民族路と孫文西路との交差点にある西山寺付近にあった)、拱辰門(北門にあたり、今の拱辰路と太平路の交差点の榕樹付近にあった)と命名されていた。現在でもわずかに城壁跡が残されていると言われるが、なかなか見つけられない。かつて古城の中心部を成した県署衛門は、かつて仁山の南側で、今の孫中山祈念堂一帯に開設されていたという。
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