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河南省 鄭州市 ~ 人口 925万人、 一人当たり GDP 30,000 元
➠➠➠ 鄭州市の 城跡リスト ➠➠➠
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滎陽県城(鄭国&韓国の王都・新鄭城、滎陽郡城)
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大柵城(北豫州城、【初代】滎陽県城、滎陽郡城、滎州城、鄭州城)
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管城県城(商王朝の最初の王都・亳城跡、管城鎮城、【3代目】鄭州城、滎陽郡城)
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武牢県城(虎牢城、北豫州城、【2代目】滎州城、鄭州城)
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巩県城
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京県城
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密県城
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成皋県城
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苑陵県城
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新鄭県城
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官渡の古戦場(三国志遺跡)
【 鄭州市の 歴史 】
夏王朝(紀元前 2070~前 1600年ごろ)の実質的な創始者とされる禹王は、陽城(今の 鄭州市登封市)に王都を開設していたとされる。当時、華夏民族の主要な活動エリアは、伊洛河と潁河の 上流域一帯(嵩山の周辺)、および、今の山西省の南部一帯であったと考えられている。
夏王朝の治世下で、商の地に封じられた 契(閼伯)の時代から、 その 13代目子孫の成湯の時代に至るまで、商国は実に 8回にも及び、黄河流域で夏王朝の朝廷軍と戦火を交えることとなる。 最終的に、成湯により夏王朝の国都であった封丘が攻略され、最後の国王となった桀王は追放されるに至る。下地図。
こうして夏王朝に代わって商王朝が建国され、湯王(成湯)により 亳の地(今の商丘市)に王都が開設される。後に王都は現在の鄭州市へ遷都され、ここが亳へ改名される。かつての亳の地は南亳に変更された。
この 2代目王都である亳城の遺跡は、現在の鄭州市中心部に現存する。それは内外の 2重にも渡る石積み城壁を有し、その内城は長方形で、外城は円形で内城を取り囲んでいたことが分かっている。この外円形ー内方形という城郭スタイルは、古代人の「天は丸く、地は水平である」という世界観に基づいた建築スタイルと考えられている。その王都の規模は、当時、世界最大を誇ったという。
その 商(殷)王朝も、紀元前 1046年、周の姫発により滅ぼされ、西周朝が建国される。姫発は武王に即位した後、異母弟である 管叔(管叔鮮)を鄭州の地に封じ、管国(王都はかつての夏王朝の 王都・亳城跡に開設)を建国させる。当時、鄭州市一帯には他に、鄶国や 東虢国、祭国、密国などが設置された。なお、後にこの管叔らが三監の乱を起こし、周公旦の率いる西周の朝廷軍に敗れて、処刑されることとなる。下地図。
西周朝の末期、時の 皇帝・宣王の実弟であった 姫友(桓公)が 南鄭の地(現在の 陝西省渭南市華県の東部)に封じられる。上地図。
しかし、西周王朝が関中盆地を追われ、新たに王都を東の洛邑へ移転すると、鄭国も東へ転出され、滎陽城(今の 鄭州市滎陽市の北東部)を王都とする一帯が新領土に定められた。
続いて 2代国王に即位した武公により、隣国の鄶国や 東虢国、胡国が武力併合され、鄭国の勢力は一気に拡大することとなる。
紀元前 765年、武公は旧鄶国の王都跡であった地を新王都に選定し、新鄭城と命名する。下地図。
紀元前 375年、韓国が鄭国の新鄭城を占領し、鄭国を滅ぼす。
しかし、紀元前 230年には、その 韓国(最後の王都は新鄭城にあった)も秦に侵略され併合される。鄭国と韓国の王都として 500年間、君臨し続けた新鄭城跡は、秦朝の下、滎陽県城として再スタートを切ることとなった。
秦により平定された後、周囲の城邑が 滎陽県、巩県、京県へと昇格される(三川郡に帰属)。 このとき、南部の鄭州市新鄭市の一帯は、南に隣接する潁川郡に属された。以降も、旧新鄭城の王都跡である滎陽県城は、 この地域の主要都市の一つとして機能し、黄河流域の河川交通と陸路による街道網が整備され、中原の先進都市であり続けた。
秦朝末期の紀元前 207年、項羽と別ルートで関中へ進軍した劉邦は、韓の地で張良を幕僚に迎え、名将・楊熊の率いる秦軍を白馬、続いて曲遇の 東部(今の 鄭州市中牟県の東部一帯)の戦いで撃破する。 楊熊は滎陽城まで撤退するも、敗戦の罪を咎められ秦朝廷により処刑された。
前漢時代、三川郡は河南郡へ改編される。新設された 密県や 成皋県、新鄭県、苑陵県もまた、この河南郡に帰属された。上地図。
前漢時代、巩義県と滎陽県は漢王朝でも屈指の製鉄産業の地となり、高炉基盤や墨鋳鉄産品類などの遺物が複数、発掘されているという。これに伴い、滎陽城内には朝廷より派遣された製鉄監理官の駐在所まで併設されていた。
後漢末期の 190年、董卓が権勢を振るっていたころ(上地図)、中原各地で反董卓を掲げて群雄が立ち上がると、董卓は徐栄を派遣して各地の軍閥制圧戦を進めた。このとき、河南郡滎陽県下の汴水の流域で、豫州へ向けて進軍中の徐栄軍は曹操と衛茲の率いる義勇軍と遭遇し、これを大いに撃破する。衛茲は戦死し、曹操自身も流れ矢に当たり、乗馬も失ってしまうが、曹洪の馬を借りて命からがら逃走している。
翌 191年、徐栄は更に南下し頴川郡下の梁県で孫堅軍を撃破している。上地図。
200年に勃発した曹操と袁紹との官渡の戦いは、鄭州市中牟県の河畔地帯で行われている。上地図。
三国時代後期の 242年、河南郡から滎陽郡が 分離・新設される(郡役所は滎陽県城に開設)。下地図。
時は下って、南北朝時代。華北地方の五胡十六国時代を統一した北魏が南下政策を進める中、奚斤の率いる北魏軍が 虎牢城(今の 鄭州市滎陽市汜水鎮虎牢関村の北西部)を包囲する。対する南朝の宋朝側の守将である毛徳祖との間で 100日以上にわたって激選が繰り広げられた。
世に有名な虎牢の戦いである。下地図。
北魏軍は当地を占領すると、それまであった司州を 北豫州(かつて存在した旧豫州の北部に位置するという意味で命名)へ改称し、その州役所を虎牢城内に開設する。すぐ後の 447年、州役所は 大柵城 (今の 鄭州市滎陽市城関鎮老城地区)へ移転される。
なお、この大柵城であるが、西晋時代に長年の戦乱で滎陽城から逃れてきた張卓と董邁らにより、自衛の環濠集落が建設されたことに由来し、当初は大柵塢と通称されていたらしい。 493年、この北豫州役所が入居されていた大柵城が、【二代目】滎陽郡城、滎陽県城として認定され、正式に県役所が開設されることとなる。
北魏から分裂した東魏朝の治世下の 534年、州役所は再び虎牢城へ転出され、 広武郡、成皋郡、滎陽郡の 3郡と 11県を統括することとされた。
北周時代の 578年、北豫州が滎州へ改称される(そのまま滎陽県城の地名から命名された)。 引き続き、成皋郡や広武郡などと共に 8県が管轄下に配された。
南北朝時代を統一した隋代の 581年、滎州が鄭州へ改名される(州役所は虎牢城のままとされた)。596年には鄭州から管州が 分離・新設された。
618年に 2代目皇帝・煬帝が暗殺されると、 3代目皇帝に楊浩と 楊侗(恭帝)の二人が擁立され、各地方の群雄が双方に分かれて戦乱を拡大させることとなる。 最終的に、王世充らにより擁立された 楊侗(恭帝)側が勝利するも、翌 619年には王世充自身により権力禅譲が強行され、隋朝は滅亡するに至る。
王世充は自ら皇帝を称し、国号を鄭と定める。これが史上 3つ目の鄭国の誕生となっている。しかし、620年に李淵の唐軍に敗れ、すぐに滅亡する運命をたどった。
唐朝が建国された 621年、かつての商王朝時代の 王都・亳城跡に開設されていた 管城鎮(今の 鄭州市中心部)が管城県へ昇格される。 633年には鄭州の州役所が 武牢県城(虎牢城の別名)から管城県へ移転される。 742年、鄭州が滎陽郡へ改称されるも、郡役所は引き続き、管城県内に開設された。
北宋はその王都を汴京に開設した後、1105年、鄭州(管城県城)に 西輔(京西北路に帰属)が新設される。宋代に設置された四輔郡の一つとなった。
このころ、各地の風光明媚な地に 書院(高等教育機関)が設立されていく。 中国五山の一つである 嵩山(今の 鄭州市登封市)の山裾に開設された嵩陽書院は、当時の四大書院の一つに列せられるほどであった。
金代と元代、郭守敬と王恂主持が全国に 27の天文観測所を設置する。登封観測所がこの全国の観測所の中心的役割を担うこととなった。下写真。
金代の 1140年には、岳飛が南宋軍を率いて中牟まで進軍し、金軍を撃破している。そのまま開封城まで迫るも、金国の調略により、岳飛は強制撤兵を命じられ、後に刑死されることとなる。
明代、清代には、鄭州(管城県城)は開封府に帰属された。
清朝末期、平漢鉄道と隴海鉄道が鄭州市内で交差したことにより、鄭州市は中国大陸の東西南北交通の大動脈の地位を手に入れ、以後、急速に経済開発が進められることとなった。
1912年にこの地を訪れた日本の経済学者である林重次郎が、 その 著書『河南省鄭州商情』の中で、鄭州を「中国の シカゴ(米国の内陸工業都市)」と比喩している。
1913年には、鄭州(管城県城)は鄭県へ降格される。
日中戦争が開始された当初の 1938年6月9日、 国民党政府は日本軍の隴海鉄路沿いの西進を阻止すべく、花園口で黄河の南岸の堤防を爆破し、 黄河を 決壊・氾濫させる花園口決堤事件が起こされている(上地図)。この人為的な決壊事件は、 中国の江北地方の人々に多くの損害をもたらせた、国民党政権の悪政の一つとして歴史に刻まれることとなった。
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