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漳州市
訪問日:20--年-月-旬 『大陸西遊記』~
福建省 漳州市 ~ 人口 520万人、 一人当たり GDP 98,000 元
➠➠➠ 漳州市内の 城跡リスト ➠➠➠
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【二代目】龍溪県城(【三代目】漳州城)
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【初代】龍溪県城
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【二代目】漳浦県城(【二代目】漳州城)
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西林城(【初代】漳州城 & 漳浦県城、綏安県城)
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雲陵城(雲陵駅城、雲陵撫民庁城)
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下河村古城(城塞集落)
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菜埔堡(城塞集落)
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莆美堡(城塞集落)
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詔安県城(懐恩県城、懐恩鎮城)
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南靖県城
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長泰県城
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平和県城
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南勝県城
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海澄県城
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龍岩県城(什羅県城、新羅県城)
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鎮海衛城
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六鰲城(陸鰲千戸所城)
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懸鐘城(玄鐘千戸所城)
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銅山城(銅山守御千戸所城)
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宮前湾(陳城鎮) ~ 1683年、施琅が台湾遠征のために 艦隊を集結させ出航した場所
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詒安堡(詒安城)
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趙家堡
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旧鎮鎮城(城内村 と 城外村)
【 漳州市の 歴史 】
漳州市一帯では、すでに 1万年前には古代人類の生息が確認されているという。
西周~春秋時代の頃まで、福建省一帯は七閩の地と呼ばれていた。
戦国時代前半の紀元前 333年、江東地域に勢力を張った越国が楚国に滅ぼされ、旧越国の残党勢力らが流民となり浙江省から福建省へ南下して以降、このエリアで 文化・民族の融合が進み、百越族らが割拠する「閩越の地」と総称されるようになる(下地図)。
紀元前 221年に秦の始皇帝が中原を統一すると、周辺国への遠征を開始し、 紀元前 214年に「閩越の地」を支配していた「閩越国(越国の解体後、その残存勢力を束ねて再起のチャンスをねらっていた越王勾践の 末裔・欧陽無諸を王とする)」などを服属させ、福建省全体も併合されることとなる。こうして旧「閩越国」の地に閩中郡が新設されると、郡都は
(東)冶県城(今の 福建省福州市閩侯県の武夷山)
に開設された。
始皇帝の死後、中原各地で諸侯が挙兵すると、越人の残党を率いた欧陽無諸も「閩越国」の復興を目指して反秦で兵を挙げ、軍を率いて北上し諸侯連合軍に参加する。秦滅亡後、すぐに項羽と劉邦の戦いが勃発すると、無諸は楚の項羽を見限って劉邦へ寝返る。
202年2月末、劉邦が全国統一を成し遂げ前漢王朝を建国すると、欧陽無諸はそのまま閩越国王に封じられ、その王都を秦代の
(東)冶県城(今の 福建省福州市)
に定める。
この時、今の漳州市域の北半分は閩越国、南半分は 南海国(後に南越国が併合)が統治することとされた。下地図。
その後、土地柄がよく経済も充実し余力が生じてくると、閩越国はいよいよ勢力拡張の欲にかられることとなる。紀元前 135年、時の閩越国王であった欧陽郢が西の
南越国(王都は、今の 広東省広州市)
へ大軍を率いて攻め込むと、南越国は前漢朝廷に救援を打診する。すぐに、7代目皇帝・武帝(在位:紀元前 141~前 87)により大軍勢が閩越国へ派兵される。
前漢軍とも対決姿勢を強めた欧陽郢に対し、実弟の餘善は閩越国自体が滅ぼされることに危機感を覚え、政変を決行して 国王・欧陽郢を暗殺し、前漢朝に謝罪する。これにより矛を収めた武帝は、初代王・欧陽無諸の孫である繇君丑に閩越国王を継承させる。この決定に不満をもった餘善は繇君丑と対立する形で、自身も王を自称するようになる。この閩越国の分裂に対し、武帝は再度の派兵はせず、そのまま餘善を 東越王、越繇王を閩越国王に封じて、両立させることを許容した(国土は同じで、尊称のみ変えただけ)。
北の匈奴討伐に成功した武帝は、いよいよその矛先を南へ向けることとなり、前漢朝からの挑発を受けた南越国が挙兵に追い込まれると、紀元前 112年、前漢朝より征討軍が派兵される(下地図)。このとき、閩越国へも出兵命令が下され、東越王・餘善(余善)が 8,000の兵を率いて東から南越国の国境へ侵攻するも、揭陽県域に達したところで、進軍をストップしてしまう。こうした傍観姿勢は南越国との密通を前漢朝に疑われることとなり、前漢軍が南越国を滅ぼした 後(翌紀元前 111年)、任地の豫章城から南下していた 楊僕(下地図。楼船将軍)が、 そのまま 閩越国(東越国)への攻撃を武帝に上奏するも、武帝は兵士の休息を理由にいったん撤兵させる。
しかし、この楊僕と武帝のやりとりを耳にした 餘善(余善)は焦りを覚え、先手必勝とばかりに反漢で挙兵することを決意する。餘善は漢軍が侵入するであろう国境ルートの 要衝(白沙など)に兵を配置しつつ、楊僕が封じられていた豫章城へ侵攻する。東隣の 餘汗城(上地図。今の 江西省上饒市余干県)を攻撃され、楊僕は配下の軍校尉を殺害されるなどピンチに陥る。その直後、勢いに乗る餘善は皇帝を自称し、武帝に対抗しようとする。これに激怒した武帝は、四路から東越国への侵攻を開始する(翌紀元前 110年)。
餘善は国境ラインまで戻って兵を配備し、自らも泉山に出陣して陣頭指揮をとることとした(上地図)。しかし、配下の 将軍・呉陽動が前漢朝との和睦策を献じるも無視したことから、呉陽動は兵 700を率いて漢陽城を占領し(上地図)、餘善の背後を脅かすこととなる。ここに至り、餘善は前線基地の泉山を放棄し、
王都・(東)冶都
への帰還を余儀なくされるのだった。しかし、王都にいた繇君居らの謀議により餘善は暗殺され、閩越国(東越国)は前漢朝に全面降伏する。そのまま東越国は廃止されることとなった(繇君居が継承していた閩越王の尊称はそのまま存続を許され、最終的に紀元前 85年に廃止されることとなる)。
いよいよ前漢朝の中央集権体制が福建省の地にも及ぶと、会稽郡(郡役所は江蘇省蘇州市に開設)に統轄された(上地図)。
旧閩越国(東越国)の王都跡地に
冶県城(今の 福建省福州市)
が開設され、現在の漳州市の北半分はこの会稽郡下の冶県に、南半分は南海郡揭陽県に統轄される(上地図)。 後漢時代に冶県は侯官県へ改称された。
三国時代、孫呉により 260年、会稽郡の南部に建安郡が新設されると、今の漳州市北半分は、そのまま建安郡下の侯官県に統轄された。
280年に三国時代を統一した西晋王朝により、282年、建安郡の一部が分離され、晋安郡が新設される(下地図)。この時、晋安郡の郡都は
侯官県城(今の 福建省福州市)
に開設され、 原豊県、侯官県、羅江県、宛平県、温麻県、晋安県、同安県、新羅県の 8県を統括した。
この時代、漳州市北半分はこの晋安郡下の 晋安県(県役所は、今の福建省
泉州市
南安市豊州鎮)に統括され、南半分は義安郡下の綏安県に属した。下地図。
南北朝時代の梁王朝の治世下の 510年ごろ、晋安県が分離され
蘭水県(今の 漳州市南靖県靖城鎮靖城村)
が新設されると、これに統轄される。この蘭水県が、現在の漳州史における最初の県城開設となった。
589年に 300年ぶりに中原の戦乱を統一した隋朝は、592年、
蘭水県
と綏安県を廃止し
【初代】龍溪県(540年に開設。今の 漳州市竜海市顔厝鎮古県村)
に合併させると、現在の漳州市域はようやく南北分断の時代を終え、一つの行政区にまとまることとなる。しかし、間もなく、龍溪県も廃止され、南安県に吸収合併されるも、すぐに南安県自体も廃止されることとなる。
以降、唐朝が漳州を新設するまでの 100年以上もの間、福建省南部は県城のない空白時代を過ごすこととなる。これは、隋朝が運河建設や王都建設、高句麗遠征などで莫大な国費を消耗したことからの経費削減策の一環であった。
唐代前期の 686年12月9日(旧暦)、泉州(今の福州市)の 南部(もともと綏安県の県域)と、潮州の一部が分離されて、漳州が新設される。
漳浦県(州都を兼務。今の 漳州市雲霄県西林村)
と
懐恩県(現在の 漳州市詔安県南詔鎮)
の 2県を統轄した(上地図)。州都を兼ねた漳浦県城が漳江沿いに立地したことから、漳州と命名されたとされる。
716年、漳州役所と漳浦県役所が
李澳川(今の鹿渓)の 河畔(今の 漳州市漳浦県中心部・綏安鎮)
へ移転される(【二代目】漳州城)。 741年には、懐恩県下でも伝染病が流行したことから人口が激減し、懐恩県が廃止され懐恩鎮に降格される。
777年、汀州下の 龍岩県(今の 漳州市龍岩県。742年に 什羅県・新羅県から改名)が漳州へ移籍されると、漳州は 漳浦県(州都を兼務。今の 漳州市漳浦県綏安鎮)、龍溪県(今の 漳州市竜海市顔厝鎮古県村)、龍岩県の 3県を統括した。786年、州役所が
龍溪県下の 桂林村(今の 漳州市中心部・薌城区)
へ再移転される(【三代目】漳州城、【二代目】龍溪県城)。
唐朝末期の動乱下にあった 886年、王潮(846~898年)、王審邽、王審知(862~925年)ら三兄弟が農民義勇軍を率いて福建省へ進出し泉州城を攻略し、州長官を処刑して泉州を占領してしまう。王潮らはすぐに福建観察使の陳岩に帰順したため、陳岩の推挙を得て唐朝廷から 泉州刺史(威武軍節度使)に封じられ、この地での王潮兄弟による治世がスタートする。間もなく、唐朝も 907年に滅亡すると、王潮の末弟であった王審知が福建省全域を支配する 閩国(王都は
福州市
)を建国するに至る(909年)。上地図。
しかし、その閩国も王審知の死後、政権が迷走し、ついに 947年に南唐国の侵攻を受けて滅亡する。なお、そのどさくさの最中、閩国救援に赴いていた呉越国が南唐の遠征軍を大破すると、そのまま閩国の北半分を併合してしまうのだった(下地図は、954年当時の様子)。
なお、944年に閩国政権の内紛を見限って、泉州と漳州エリアで独立政権を樹立していた 陳洪進(914~985年)は、南唐国に帰順してそのまま 清源軍(今の 泉州市、莆田市、漳州市一帯を統括した。下地図)の節度使に留任される(963年には平海軍へ改称)。
北宋が 975年に南唐朝を滅ぼすと、978年には呉越国も北宋に降伏し、呉越国は消滅する。強大な北宋と直接、国境を接するようになった 平海軍節度使の陳洪進もまた北宋に帰順し(同じく 978年)、漳州をはじめ平海軍一帯も北宋の版図下に組み込まれることとなった。すぐに、 北宋朝は平海軍を 泉州(以後、元代は泉州路、明代は泉州府へ変更)へ改編する(福建路に帰属)。
元代の 1279年、漳州路へ改編される。明代初期の 1368年、漳州路が
漳州府(府都は、そのまま龍溪県城が兼務)
へ改編され、福建省布政使司に直轄された(下地図)。漳州府は福建省南部に流れる、九龍江の全流域とその南西エリア一帯を統括していた。
清代も引き続き、漳州府役所は龍溪県城内に入居し、配下に 10県を統轄した。すなわち、
龍溪県(今の 漳州市中心部・薌城区)
、
漳浦県(今の 漳州市漳浦県)
、
南靖県(今の 漳州市南靖県靖城鎮)
、長泰県(今の 漳州市長泰県)、
平和県(今の 平和県九峰鎮)
、
詔安県(今の 漳州市詔安県)
、海澄県(今の 漳州市龍海市海澄鎮)、龍岩県(今の 福建省龍岩市新羅区)、漳平県(今の 福建省龍岩市漳平市)、寧洋県(今の 福建省龍岩市漳平市双洋鎮)と、
雲霄庁(今の 漳州市雲霄県)
の 1庁である。上地図。
1734年、閩浙総督の郝玉麟が龍岩県城を州へ昇格するように朝廷に上奏すると、龍岩直隷州が新設される。この時、龍岩県、漳平県、寧洋県の 3県が漳州府から分離され、龍岩州へ移籍される。
行政区が縮小された
漳州府
は、現在の九龍江の中、下游流域と、その南西エリア一帯のみを統括することとされた。 これが、現在の漳州市域の由来となるわけである。
中華民国が建国された翌 1913年、全国で府州制が廃止されると、漳州府は抹消され、各県はそのまま福建省に直轄された。
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