ホーム
中国地図 ~
三国志 遺跡 ~
中国 オススメ
世界の城郭
日本の城
歴史 雑学
城郭都市 概説
当研究会 情報
中国地図 から
≫
湖南省 地図
≫
永州市
訪問日:20--年-月-旬 『大陸西遊記』~
湖南省 永州市 ~ 人口 530万人、 一人当たり GDP 23,000 元
➠➠➠ 永州市内の 城跡リスト ➠➠➠
▼
クリック
▼
永州府城(泉陵王城、泉陵県城、零陵郡城)
▼
營浦県城(營陽郡城)
【 永州市の 歴史 】
秦の始皇帝は、紀元前 221年の中原統一後、全国への中央集権体制の浸透を図り、郡県制を設置する。このとき、現在の永州市一帯は長沙郡下の零陵県に帰属された。県役所は現在の広西省桂林市全州県の旧市街地に開設される。
前漢朝時代の紀元前 124年、武帝により長沙王・劉発の皇子であった劉賢が泉陵侯に封じられ、泉陵侯国(王都は今の 永州市零陵区に築城される)が建国される。さらに、紀元前 111年、長沙国が分離され、同じ荊州の下、零陵郡が新設される。このとき、零陵郡は 零陵県、營道県、泛道県、營浦県、始安県、洮陽県、 鐘武県の 7県と 泉陵、都梁、夫夷、舂陵の 4侯国を管轄することとされる。今の永州市一帯もここに帰属された。
前漢王朝が滅亡し、新莽王朝の時代、零陵郡は九嶷郡へと改名される(郡役所は零陵県城のまま)。
後漢時代の 25年、再び零陵郡へと戻され、泉陵侯国も泉陵県へと改称される。零陵郡役所は泉陵侯国の王都があった泉陵県城内へ移転されてくる。
三国時代、赤壁の戦い前に曹操に帰順した零陵郡太守・劉度は、翌年、劉備軍に降伏する。しかし、5年後にはいったん呂蒙らに零陵郡が占領されるも、
益陽
での単刀赴会を経て、すぐに劉備側へ返還される。最終的に、4年後の関羽討伐戦後、呉領として確定される。呉の孫権は、そのまま泉陵県城を郡都として零陵郡の統治を進める。
第 4代目の呉皇帝に即位した孫晧は、266年、零陵郡の南部を分離して、營陽郡を新設する。郡役所は 營浦県城(今の 永州市道県の西北部)に開設される(同じく荊州に所属)。營浦県、營道県、舂陽県、泠道県の 4県を管轄することとされる。
しかし 280年、西晋軍の呉侵攻が開始されるに及び、孫晧は西晋に降伏し、三国時代は終焉を迎える。中国全土を統一した西晋朝は、同年、營陽郡を廃止し、その行政区を再度、零陵郡に編入させる。307年、零陵郡は湘州の管轄下となる。
東晋時代の 350年ごろ、零陵郡が再度、分離され、營陽郡が再設置される(同じく荊州に帰属)。県役所は前回同様に、營浦県城内に開設される。
南北朝時代の梁朝下の 515年、營陽郡が永陽郡へと改名され、次の南朝王朝となる陳朝の時代には、湘州の下に永陽郡が配されることとなる。
南北朝時代を統一した隋の文帝は、589年、零陵郡と永陽郡を廃止し、その行政区は 永州総管府(府役所は泉陵県城内に開設)に編入される。永州総管府は湘州の下に管轄されることとなる。
隋朝 2代目皇帝・煬帝は 607年、永州総管府を零陵郡へ改名する(引き続き、湘州に帰属)。
唐代においても、度々、行政区や地名の変更が実施される。永州、營州、道州などへの帰属、分離が繰り返され、最終的には湖南観察使の下、永州と道州に分かれて帰属されることになる。
五代十国時代から元代にかけて、永州(永州路)は零陵県城を中心に、道州(道州路)は 宏道県城(今の道県)を中心に継承されていく。
明代初期の 1368年、元朝時代の路制から府制へ全面改編される。引き続き、永州府は零陵県城、道州府は營道県城を中枢都市とされる。
清代初期の 1644年、永州府は湖広右承宣布政使司の管轄下に入る。すぐに湖広右承宣布政使司は湖南省へと改名され、永州府は湖南省衡永郴桂道の下に入れられる。
清の滅亡後、中華民国時代に湖南省下の衡陽道に帰属した後、1995年に現在の永州市制がスタートする。
なお、現在の永州市中心部である冷水灘区は、もともと零陵県の一つの 鎮(冷水灘鎮)が開設されていた場所に過ぎず、その都市開発が本格化されたのは、近代以降である。
かつて、前漢朝時代は泉陵侯国の王都が築城され、後漢朝以降、零陵郡の中心都市として君臨したのは、ここから南へ 30 kmに位置する零陵区の旧市街地であった。泉陵王城、泉陵県城、零陵郡城、永州府城などと名を変えながら、 2200年近い歴史を有する古都である。 しかし、今は城壁も城門跡も全く残されていない。路地名や地名にわずかばかり残影が感じられる程度である。城南路、城南蓄積所、東門嶺路など。
また、現在の永州市道県道江陳舂陵街の一帯は、かつて前漢時代の營浦県城に始まり、三国時代末期には營陽郡の郡都ともなり、唐代以降は道州の中心都市として栄えた地であるが、現在では寂れた地方県級都市に凋落してしまっている。城壁や城門跡も全く残されていない。旧市街地の周辺に「北門村」「東門村」の地名があり、その他は全くの残骸すら見られない状態であった。
© 2004-2024 Institute of BTG
|
HOME
|
Contact us