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延辺朝鮮族自治州
訪問日:20--年-月-旬 『大陸西遊記』~
吉林省 延辺朝鮮族自治州 ~ 人口 196万人、 一人当たり GDP 39,000 元
➠➠➠ 延辺朝鮮族自治州内の 城跡リスト ➠➠➠
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朝東山城跡(延辺朝鮮族自治州龍井市)
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船口山城(延辺朝鮮族自治州龍井市光開鎮)
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北興村朝鮮族伝統民居(延辺朝鮮族自治州龍井市三合鎮北興村)
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龍井市龍山朝鮮族民俗村
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龍井日本総領事館跡(延辺朝鮮族自治州龍井市)
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日本間島領事館跡
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阿踈城、鈍恩城(遼王朝&金王朝時代の城塞)
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塢塔城(遼王朝時代の城塞。今の 延辺朝鮮族自治州琿春市密江村)
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延吉府城(延吉庁城)
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琿春庁城(琿春協領、琿春副都統)
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温特赫部城跡、裴優城跡(明代末期、建州女真族の城塞集落跡。琿春市三家子郷古城村北)
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”土”字牌(1886年に清朝ロシア間で確定された、国境線を示す石碑)
【 延辺朝鮮族自治州の 歴史 】
延辺朝鮮族自治州では、地元の発掘調査により、新石器時代から古代人類の生息が確認されている。この頃、すでに粛慎族が一帯に割拠しており、その末裔の一つである女真族が、後に清王朝を建国すると(1616年)、祖先発祥の地「龍興の地」と表されることとなる。
前漢朝時代、初めて中原王朝の支配を受けるようになり、第 7代目皇帝・武帝が設置した 4郡の 1つ、玄菟郡の行政区に組み込まれる(紀元前 108年~)。
その後、前漢時代末期に勃興した高句麗の版図下に置かれるも(上地図)、668年に唐王朝により滅ぼされると、以降、唐朝下の安東都護府に直轄される。
間もなく、唐朝の厳しい統治に反発した、地場部族や旧高句麗遺民らが反乱を繰り返すようになり、最終的に彼らをまとめ上げた 粟末靺鞨族(粛慎族の末裔)が、渤海国を建国するに至る(698年。当初は唐朝と軍事衝突を繰り返すも、713年に再帰順して存続を公認される)。下地図。
その渤海国も 926年に契丹族により滅ぼされ、契丹族が遼王朝を建国し、華北地方で北宋朝をも圧倒するも(燕雲十六州の割譲、澶淵の盟など)、200年後の 1125年、靺鞨族の末裔である女真族が建国した金王朝により、遼王朝もまた滅亡に追い込まれるのだった。
下地図は、その金王朝時代のもの。
現在の延辺朝鮮族自治州図們市の周辺に見える、阿踈城、鈍恩城、塢塔城は、いずれも遼王朝時代に築城されており、台頭する 金軍(現在の
黒竜江省ハルビン市
が拠点)との間で、激しい攻防戦が繰り広げられた場所である。
元代は遼陽行省開元路に、明代には奴児干都司下の 虎爾哈(布爾哈)図等衛所に統括された。
さらに時は下って清代の 1714年、清朝廷により琿春協領が新設されると(寧古塔副都統に帰属)、その管轄下で対ロシアへの国境警備用の烽火台が 15ヵ所、設置される。翌 1715年、琿春協領の 役所(衙門)が、渾蠢水(今の琿春河)の北岸へ移転されると(現在の 琿春市龍源社区、春城小区、欧式街あたり。下地図)、すぐに琿春城の築城が開始される(元々あった古城遺跡を改修する形で。城名も付近を流れる「琿春河」に由来)。
1859年に琿春協領が副都統銜協領へ、さらに 1881年には琿春副都統へ昇格されると、現在の延辺朝鮮族自治州の大部分を統括することとなった。
この初代・琿春副都統に着任した 依克唐阿(1834~1899年)は、南下してくるロシア帝国に対抗すべく、琿春城(上地図)をさらに大規模改修し、東へ延伸させて、今の靖和街の東側までを城域に含める(以降、「旧城」地区と通称される。上地図)。また同時に、国境警備のための見張り台や砲台陣地なども、各地に整備していくこととなった。
さらに、依克唐阿は吉林辺務督弁や琿春招墾局を開設し、ますます移民を奨励して、荒れ地の開墾と住民人口増を促進する政策を打ち出すのだった。これまで 墨爾根副都統、黒竜江副都統、呼蘭副都統などを歴任し、対ロシア交渉で強硬派として対応してきた実績を評価されていた依克唐阿は、最終的に 1895年、盛京将軍にまで昇格し、4年後に病死する。
1902年、清朝廷により、今の延吉市中心部に延吉庁が開設される(上地図)。
1909年、琿春副都統が琿春庁へ改編されると(上地図)、密江の東岸一帯を統括した。庁役所は、そのまま琿春城内に入居される。あわせて、吉林省東南路分巡兵備道、琿春庁撫民同知衙門と道台衙門の諸役所が、琿春城内に同時開設されることとなった。
この頃、日清戦争を経て、日本が朝鮮半島を支配しており、日本の軍部はこの朝鮮半島を足掛かりに、中国側の延吉庁や琿春庁一帯に対し、頻繁に挑発行為や越境活動を繰り返すようになっていた(上地図)。
そんな最中の 1907年、朝鮮人保護を名目に、日本軍が延吉庁域へ出兵してくると、朝鮮人住民がもともと多かった龍井村を占拠してしまい、朝鮮総督府直轄の 臨時「間島派出所」(下写真)を勝手に開設してしまう。以降、ここを拠点に諜報活動が展開されていくこととなる。
国境線がなし崩し的に侵犯されていく現状に危機感を募らせた清朝は、1909年9月4日、日本との間に『中韓界務条款』を締結し、図們江を中国と朝鮮側との国境線とすることを再確認させる。この時、「延吉地方の朝鮮人に関しては、引き続き、清国側が統括する」ことを正式合意に取り付けた清朝政府であったが、逆に 龍井村(今の 龍井市)、局子街(今の 延吉市中心部)、頭道溝(今の 和龍市頭道鎮)、百草溝(今の 汪清県百草溝鎮)などの 4都市の対外開放に同意させられることとなった。
条約締結から 2か月後、日本は「間島派出所」を閉鎖し、そこに派遣されていた文官、武官らを撤収させ、かわりに上述した開港地の 4都市に、新たに日本領事館を開設する。
対して清朝廷は、延辺地区の統治を強化すべく、延吉庁を延吉府へ昇格させるのだった。
そんな清王朝も、全国各地で社会不安が増大し、反乱が頻発することで、ついに 1912年、なし崩し的に滅亡してしまうと、中華民国が建国される。この統治下で、翌 1913年、延吉府が 延吉県(今の 延吉市中心部)へ改編される。
1931年9月18日の満州事変以降、日本が満州地方を実質的に支配すると、延吉県は間島市と改称され、間島省の省都に定められる(下地図)。そして 1945年8月18日、ソ連軍と東北部の抗日中国軍が間島市へ進駐してくると、間島省の日本軍統治機構も崩壊に追い込まれることとなった。11月20日、「間島市」が、中華民国時代の地名「延吉県」へ戻される。
国共内戦の末、1948年3月9日に吉林市が共産党軍により占領されると、翌 3月10日、共産党吉林省政府機関が避難先の延吉街から
吉林市
へ移転され、正式に吉林市が省都に定められる。
1952年9月3日に延辺朝鮮族自治区が新設されると、1955年8月30日に延辺朝鮮族自治州へ改編され、今日に至るわけである。
目下、中国で唯一の朝鮮族自治州であり、最大の朝鮮族集住エリアとなっている。中国全土にいる朝鮮族人口の 42.3%が、この地に居住しているという。
また現在の延辺朝鮮族自治州内には、11ヵ所もの国境ゲートが設けられており、それぞれ北朝鮮、ロシアへ通じる玄関口を成し、吉林省全体の 90%以上の国境取引が当地を通じて実施されているという。特に、延吉市の中心部は国際空港を有する一方、市中を流れる 布爾哈通河(プルハトン河)から日本海へ直接、アクセスできる交通の要衝ともなっている(内陸部から日本海への玄関口となっている、中国唯一の内陸港町。上地図参照)。
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