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孝感市
訪問日:20--年-月-旬 『大陸西遊記』~
湖北省 孝感市 ~ 人口 490万人、 一人当たり GDP 26,000 元
➠➠➠ 孝感市内の 城跡リスト ➠➠➠
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孝昌県城(孝感県城)
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安陸県城(安陸郡城、安州城)
【 孝感市の 歴史 】
現在の孝感市にある城北街道事務所の敷地内から、新石器時代の門板湾遺跡が発掘され、5000年前の人類の生息が確認されたという。
夏王朝時代、および 商(殷)王朝時代、現在の孝感市一帯は古荊州の地に分類されてきた。
西周時代には、楚国、鄖国、軫国などの諸侯が割据する地で、軫国と鄖国がその王都を開設していた。
春秋戦国時代となると、鄖国、軫国などを滅ぼした楚国の版図下に組み込まれる。その統治時代は数百年にも及び、このため、多くの楚時代の遺跡が市内各所から発掘されているという。下地図。
この 楚領時代に 安陸県(今の 孝感市安陸市の中心部)が設置される。現在の孝感市一帯はこれに帰属した。
秦代、安陸県は南郡に帰属された。
なお、この時代に作成された 1000枚近い 竹簡(当時の書物)が、今の雲夢県睡虎の地にあった墳墓から発掘され、戦国時代末期から秦の始皇帝の統治時代に至る 政治、経済、文化、軍事に関する詳しい記述資料として世紀的大発見として注目を集めた。
前漢朝第七代皇帝の武帝により、紀元前 121年、南郡が分離され江夏郡が新設されると、安陸県は江夏郡へ移籍される。
三国時代期、安陸県城は魏側の 江夏郡(南北に魏と呉が分断していた)下に組み込まれていた。下地図。
南北朝時代の宋朝 4代目皇帝・ 孝武帝(劉駿)の治世下の 454年、安陸県の東側が分離されて、孝昌県(荊州江夏郡に帰属)が新設される。「孝子昌盛」の文言から命名されたという。
隋代の 583年、南北朝時代の西魏朝により設置されていた 岳州、岳山郡、澴岳郡、董城郡などの行政区が廃止され、孝昌県が復活設置される(引き続き、荊州に帰属)。
605年には、再び孝昌県が廃止され、安陸県に編入される。そのまま安州総管下の安陸郡に属した(安州役所、安陸郡役所はすべて安陸県城内に併設された)。
唐代初期、全国で郡制が廃止され、州制が復活される。孝昌県が再設置され、澴州下の安州総管府の管轄下に置かれた。唐末期の戦乱期、孝昌県は武昌節度使の勢力圏に帰属された。
五代十国時代期には、孝昌県は 宣威軍(後に安遠軍、防御州へ改名)の下に監督され、安州に属した。
923年に後梁を滅ぼし後唐朝を建国した 荘宗(李存勗)により、翌 924年、孝昌県は孝感県へ改称される。自身の祖父である 李国昌(朱邪赤心)の名に「昌」の文字が含まれ、名称のダブりを避けるためであった(上地図)。 最終的に 936年、後唐朝は後晋により滅ぼされる。
北宋時代、孝感県はそのまま以前と同じく 安州(1119年に徳安府へ昇格)に属された。
南宋時代の 1130年、孝感県役所が紫資砦へ移転され、安陸鎮撫使が併設される。引き続き、徳安府の管轄下に置かれた。
明代の 1376年、徳安府が徳安州へ降格され(1380年に再び、徳安府へ昇格される)るも、孝感県はそのまま、武昌府(後に武昌道)下の 徳安州(徳安府)に属した。
清代には、孝感市エリアは、徳安府と漢陽府に分かれて帰属された。
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