BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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陝西省 咸陽市 ~ 人口 495万人、 一人当たり GDP 42,000 元


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  秦朝の 咸陽宮跡
  咸陽県城
  興平県城
  涇陽県城
  三原県城
  醴泉県城
  武功県城
  永寿県城
  淳化県城
  三水県城
  長武県城



【 咸陽市の 歴史 】

古くは 4000年以上前の新石器時代より、数多くの原始集落が形成されていたようである。
西周の武帝が 殷(商)朝を滅ぼすと、武帝はその弟である姫高を 華の地(つまり現在の咸陽平原)の王に封じる。

また、後の穆王は勢力拡大を図って兵を派遣し、関中盆地近郊に跋扈した犬戎らの周辺部族らを駆逐し、その5王を捕虜にしたとされる。さらに、犬戎の残党勢力を 犬丘(今の 興平県の東南一帯)から西部の山脈地帯へと追い払ったという。
しかし、懿王の治世下の紀元前909年、北の儼狁族らの侵攻を受け、 一時的に 王都・鎬京(今の 西安市の西部)からこの犬丘の地へ遷都している。

咸陽市

紀元前 770年、弱体化していた西周の君主である平王を保護した功績により、秦の襄公は関中盆地の西部一帯を領地として分与され、諸侯に封じられる(上地図)。

以後、秦国はさらに西域の山間部へ進出し、そのエリアの蛮族らを併合して強大化し、いよいよ中原側へ勢力を伸張させてくる。後に関中盆地全体も秦国の勢力下に置かれるようになり、紀元前 350年、当時の秦国の王であった孝公により、王都が櫟陽から咸陽へ遷都されるに至る。以後、咸陽は秦国の首都として繁栄していくこととなった(下地図)。

なお、この「咸陽」の地名であるが、北に九峻山がそびえ、南に渭水が流れる平原地帯で、「皆(咸)に明(陽)るい地」という意味を込めて命名されたという。

咸陽市

紀元前 221年、秦の始皇帝が中原を統一すると、全国に郡県制が敷かれる。
このとき、王都があった咸陽周辺は京畿と呼ばれ、郡役所とは別に直轄の内史が設置され、管轄下の諸県を統括することとなる。

紀元前 206年に秦朝を滅ぼした項羽により、咸陽一帯の王宮、離宮は焼き払われ、略奪と破壊が徹底された。このとき、全国の覇権を握った項羽は、秦朝が定めた郡県制を撤廃し、かつての諸侯による領土分治体制を復活させる。
その一環で、秦朝の 王都直轄地(京畿)であった内史と上郡の一部が、雍国、翟国、塞国の 3国へ分割される。当時は、これらを通称して三秦と呼ばれた。秦の降将である 章邯、董翳、司馬欣をそれぞれの国王に封じた。

咸陽市

紀元前 202年に項羽を敗死させた劉邦により前漢朝が建国されると、項羽が焼失させた咸陽城の復興工事が着手される。このとき、咸陽新城と命名されたという。
それから 100年後の 7代目皇帝・武帝の治世時代に至ると、復興が進んだ咸陽城は渭水のほとりにあったことから、渭城とも通称されるようになったとされる(下地図)。

咸陽市

なお、前漢朝はもともとの咸陽宮の基礎の一部や資材などを利用して新王城の建設を進めている。これが、漢の長安城となる。
引き続き、渭水の北岸側一帯は秦朝の威光と遺構が残る地とされ、前漢時代に多くの皇帝や皇族、重臣らの墳墓が建立されることとなった。前漢時代を通じ、全国の富裕層や有力者も競って、この北岸一帯に墓所を設置することが流行となっていたらしい。

また、かつて秦朝の王都があった 雍県(今の宝鶏市凰翔県)一帯にも幾つもの離宮が建設され、前後漢時代を通じ、聖なる地として敬意が払われていたようである。

咸陽市

時は三国時代。今の咸陽市一帯は 扶風郡、馮翊郡、新平郡にそれぞれ分かれて管轄されていた。西晋朝の時代までには、咸陽市域は 始平郡、新平郡、安定郡、扶風郡その他の諸郡により細分化されて統治された(上地図)。

南北朝時代、市域には霊武県、石安県、咸陽郡などの設置・廃止が繰り返された後に、最終的に 咸陽郡、扶風郡、新平郡、雲陽郡、馮翊郡、平凉郡などの数郡がひしめき合うエリアになっていたようである。またその後も、11王朝もがこの長安、咸陽一帯に王都を定めており、現在の咸陽市一帯は、王都周辺の土地「京畿」として、その栄華盛衰を共にしていくこととなる。

隋代には、京兆郡下の 始平県、武功県、醴泉県、上宜県、三原県、涇陽県、雲陽県の 7県、及び、北地郡下の 新平県と三水県の 2県、安定郡下の鶉觚県にそれぞれ分かれて管轄されることとなっていた。
続く唐代、五代十国時代を通じて、さらに県域が細分化され、県城が新設されていった。

北宋時代には、京兆府下の 咸陽県、興平県、涇陽県の 3県、耀州下の三原県と雲陽県の 2県、邠州下の 新平県、宜禄県、三水県、淳化県の 4県、醴州下の 奉天県、武功県、醴泉県、永寿県、好畤県の 5県が配置されていた(下地図)。

咸陽市

元代、京兆府は奉元路へ改編されるも、北宋代の行政区がそのまま踏襲された。

明代に入り、奉元路は西安府へ改名される。そして 1371年、明朝は咸陽県城を 渭水驛(今の秦都区の市街地一帯)へ移転させる。これが現在に続く古城跡となる。特にこれ以降、秦朝の栄華を支えた旧咸陽城一帯は完全に廃墟となり、小麦畑へと姿を変えていったようである。
他方、このころ周辺には三水県と長武県が新設されている。
こうして明末期には、西安府下の 咸陽県、興平県、涇陽県、三原県、醴泉県の 5県と、乾州下の 武功県と永寿県の 2県、さらに邠州下の 淳化県、三水県、長武県の 3県が併存する状態となっていた。

清代には乾州と邠州は直隷州へ昇格されるも、その他の行政区は明代のものが踏襲されることとなった。

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