BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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湖南省 湘潭市 ~ 人口 460万人、 一人当たり GDP 21,000 元


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  湘潭県城
  湘郷県城



【 湘潭市の 歴史 】

商朝、西周朝の時代、すでに湘潭市一帯には多くの集落が形成されていたことが発掘調査から明らかになっているという。
春秋戦国時代において、中原文化が徐々に湖南省以南へと伝播していく上で、重要な中継地域となっていたようである。これを示す銅鋳造品や屋根瓦などが市内で数多く発掘されているらしい。

前漢時代、臨湘県(長沙郡都)が分割され、今の市域の漣水と涓水より北側一帯を管轄地とする湘南県が新設される。県役所は現在の 湘潭県石潭鎮古城村に築城された。
さらに、前漢末期の紀元前 3年、湘南県の西部の一部分が分離され、湘郷侯国が建国される(長沙王の皇子であった劉昌が湘郷侯として封じられるも、前漢王朝の滅亡により 5年で廃止される)。後に湘郷県となり、先に築城された王城が 県城(今の 湘郷市旧市街地)へと転用されることとなる。この湘郷県の新設は、すなわち、戦国時代期より中原の漢民族とは相入れない 山岳民族(蛮族とみなされていた)らとの抗争や文化摩擦が数百年を経て収束に向かった、ということを意味するものであった。

湘潭市

後漢末期の三国時代、この地は蜀の劉備と呉の孫権が争奪戦を繰り広げた地でもあった。当時は、零陵郡と長沙郡がちょうど入り乱れる地方であり(上地図参照)、特に 215年の益陽での単刀赴会による荊州 2郡の呉返還後は、零陵郡が関羽側、長沙郡が呉領の帰属とされ、これから関羽討伐までの 4年間は複雑な場所となったことであろう。
なお、劉備が荊州 4郡を平定した 209年ころは、諸葛亮の尽力により、荊州一帯の人材登用が行われ、劉備陣営の厚みが増した時期でもあった。馬良、馬謖、龐統、黄忠、魏延などとともに登用されたのが、この零陵郡湘郷県出身の蒋琬であった。後に、劉備に付いて蜀入りし、諸葛亮の死後、その遺言により承相を継承した人物である。

関羽の死後、ようやっと荊州 3郡を奪取した呉の呂蒙は、翌年の 220年、長沙郡の西部を分離し、衡陽郡を新設する。その郡役所は湘南県城内に開設され、蒸陽県(今の 衡陽県)、重安県(今の 衡南県)、湘南県(湘潭市)、湘西県(今の 衡山、衡東、南岳区)、湘郷、益陽県などの一帯を統括するものとされた。
西晋朝、東晋王朝時代も、衡陽郡役所はここに設置されていた。
南北朝時代の斉朝の統治下の 480年、湘南県が廃止され、その行政区は湘西県と 衡陽県(このころ、衡陽郡役所もここへ移転)へ吸収合併される。また一方、連道地区一帯の多くは湘郷県へ吸収され、湘郷県の県域が巨大化される。

隋朝は 湘西県、衡山県、湘郷県を合併し、衡山県一つにまとめる。
唐代初期、湘郷県のみ分離され再設置される。749年には、南北朝時代に湘南県が廃止され、他県へと吸収併合された部分以外の 地域(南は風凰嶺から、東は軍山まで、北は淦田から、西は馬家堰と茶恩寺一帯の地域と衡山県の北部一帯)が合併され、新たに 湘潭県(県役所は洛口城 ― 今の易俗河鎮―に開設)が新設される。

しかし、唐代から五代十国時代の戦乱が続く最中、湘郷県は常に漢族と 山岳民族(梅山蛮)らの対立と抗争が噴出した場所で、経済活動への悪影響も大きかったとされる。
五代十国時代を統一した北宋朝の時代、湘潭県役所は現在の湘潭市雨湖区城正街へ移転されてくる。宋代に騒乱が平定された後、この地域の経済活動が一気に発展することとなり、長江から華南地方へとつながる水運交易の重要拠点となっていく。

しかし、元朝末期に再び戦乱に巻き込まれることとなる。白蓮教と紅巾の乱が中国全土に渦巻く最中、西派紅巾軍を率いた軍閥の徐寿輝が元軍を追放し、一時は湖南省、江西省一帯を勢力圏に収めるまでに急拡大する。この湘郷県出身であった豪族・易華もまた、徐寿輝の配下にあった陳友諒と陳理父子の一団に参画し、農民戦争を鼓舞している。彼は 2度にわたって十万八千石粮もの資金を献納したとされる。
最終的には 1360年、皇帝(天完国)まで名乗った徐寿輝を殺害し、陳友諒が一帯の勢力圏を引き継ぎ(大漢国王を自称)、当時、長江流域に成立しつつあった 応天府(南京市)を拠点とする朱元璋と 隆平府(蘇州市)の張士誠の二人と並び称される軍閥にのし上がる。しかし、1363年の鄱陽湖の戦いで朱元璋の軍に大敗し、陳友諒も戦死してしまう。すぐにその息子であった陳理が皇位を継承するも、朱元璋の追討軍に大敗し、降伏するに至る。

湘潭市 湘潭市

陳理の軍閥勢力が降伏・崩壊した後も、鳥石寨(今の 湘潭県西部の山岳地帯)など 48の軍事要塞に依って、豪族・易華は最後まで抵抗する。朱元璋の軍から数度にわたる攻撃を受ける中、道々の集落や人々はことごとく破壊、殺戮され、ついに平定されたときは、この地域は 10軒に 9軒は空き家と成るほどに人口激減に見舞われたとされる。棟梁であった易華は入水自殺して果てる。

明代、清代に移り、太平の世となると、米や薬品などの商品を取り扱う水運拠点として湘潭は大いに栄え、「小南京」とも別称されたほどであったという。清末のアヘン戦争前までは、湘潭は湖南省や長江流域の商品を南の広州港から海外へ輸出する際の重要な輸送ルートを担い、湖南省でも屈指の繁栄を誇ったという。人やモノが次々に流入し、湖南省三大都市の一つとまで称され、清末の県城人口はおよそ 20万人を数えたとされる。

湘潭市

実際のところ、湘潭県城の規模は、長沙郡城をも上回るスケールであり、都市は三重の大通りによって分けられ、その総域は南北 8 km、東西 23 kmにも及んだという。しかし、アヘン戦争により湖南省の中心都市であった長沙市に港湾埠頭が整備され、さらに 粤漢鉄道(武漢ー広州間の鉄道)が開通するに及び、広州貿易に占める湘潭県城の地位は急低下し、湖南省での商業活動はすべて長沙城へ移転していったという。また、その後、湖南省一帯での鉄道網整備も進み、株洲鎮にも延伸されることで、株洲鎮は湘潭県の属地という地位から脱するまでに発展していくなど、湘潭県城の衛生都市となっていた周囲の街が独自の経済力を有するようになっていく。 こうして湘潭県の凋落はますます進んでいった。

しかし、その勇名はその後も続いたようで、日中戦争後に建国された中華人民共和国の時代、早くも 1950年に湘潭市制が開始され、今日まで継承されている。

湘潭市

なお、現在の湘潭市街区にあった宋代以降の湘潭県城跡であるが、その跡形は全く残っていない。路地名や地名にも全くと言っていいほど、かつての城郭都市の姿を示す名残も感じられなかった。わずかに 通済門区、文廟、城郊総合市場など間接的な手がかりのみであった。

湘潭市

なお、三国時代の蜀丞相となる蒋琬の出身地である湘郷県城であるが、前漢王朝時代の末期には湘郷侯国の王都として築城され、以後、隋代に衡山県へ一時編入されるも、以後は常に独立県の県城として清末まで継承さてきた。現在は遺跡らしいものは何も残されていないが、かつての城郭都市の記憶はいくつか現在にも息づいていた。県前街、務門前街、北正街、南正街、中国工商銀行南門口支店、人民公社南門店、壕塘路、惜池南路(かつての堀川跡)など。

この地で毛沢東は 16歳のとき湘郷県立東山高等小学堂に通っている。
もともと清末の 1895年に東山精舍として建学され、 1900年に東山本院、1905年には湘郷県公立東山高等小学堂となる。また、1940年に中学校となり、湖南省私立東山初級中学へと改名される。中華人民共和国建国後の 1951年、私立東山初級中学と湘郷市一女子職業学校が合併され、湘郷市一初級中学となる。 1958年9月10日には、毛沢東の 直筆「東山学校」が贈呈される。現在も、湖南省の重点中学として現役であるという。
毛沢東が 17歳のときは、同じ市内にある湖南省湘郷駐省中学堂へ進学している(今も現存)。


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