BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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陝西省 西安市 ~ 人口 852万人、 一人当たり GDP 46,000 元


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  長安城



【 西安市の 歴史 】

西安市の南西部の山岳地帯では、100万~70万年前にアフリカ大陸からアジアへ移住してきたと考えられる ホモ・エレクトス系の藍田原人の集落跡が発見されている。しかし、後に絶滅したとされる。

時は下って 7000年前、当地には仰韶文化が花開き、環濠集落が多数、出現していたようである。2008年、現在の西安市高陵楊官寨にて 6000年前の新石器時代後期の集落跡が発見される。これは中国における最も古い都市集落の一つと考えられている。

西安市

商(殷)朝を滅ぼし周王朝を建国した武王により、西安市一帯は中国王朝の中心地に定められる(当時存在した、豊京と鎬京の 2都市を総称して「豊鎬の地」と呼ばれた)。

上地図は、周王朝末期、西域の犬戒族らの侵攻で王都を追われた周王朝が、鎬京から 洛邑(今の洛陽市)へ遷都した当時のもの。
この混乱期、化戎人に分類されていた秦の 襄公(庄公の次男。?~前 766年)が異民族を排除し、周王朝の再興に貢献したことから、諸侯の一人に封じられ、この関中盆地西側の土地を下賜される。こうして西域に領土基盤と政治的権威を確立した秦国は、さらに西域の山岳民族らを支配下に治め、勢力を増大させていくこととなる。

それから 500年後の紀元前 221年、秦の始皇帝により中原が統一されると、紀元前 352年より秦の王都に定められていた咸陽城はますます拡張され、渭河を南北に挟んで南側へも拡大することとなる。また同じく渭河の南岸には阿房宮などの離宮が建造されていく(下地図)。

西安市

紀元前 202年に建国された前漢朝は秦時代の咸陽城から東南 2.5 kmあたりに 長安城(今の西安城の北西郊外にある漢城地区)を新しく築城し、ここを王都とした(上地図)。

その建設にあたり、秦王朝時代の咸陽城跡や周囲に残っていた秦代の離宮などから資材が転用され、工事が進められたとされる。下絵図。

西安市
▲「長楽宮」が初期の王宮であり、初代皇帝・劉邦やその 皇后・呂后(呂雉)が生活した場所だ。

▼ 現在の「長楽宮」跡地。水濠が残り、往時の輪郭を今に伝えている。
西安市

前漢末期の紀元 9年、皇族で大司馬の職にあった王莽が皇位を簒奪し、新朝を建国する。このとき、王城となった長安は「常安」へ改称される。

紀元 25年に劉秀により後漢朝が再興されると、再び「長安」へ変更された。

西安市

時は下って、隋朝が中原を再統一した直後、長らくの戦乱を経て、前後漢時代から長安城はかなり荒廃していた。このため、隋朝の文帝はこれを放棄し、582年、旧長安城の南東に新たな王都として 長安城(大興城と命名された)の築城を開始する。

以後、次なる 王朝・唐代の 654年に完成するまでの、実に 72年もの歳月をかけて城郭の建設工事が進めらることとなる。唐朝は大興城を長安城へ改名し、同じく王都を置いた。

634年には、それまでの外城の北東の先端部分に大明宮が建造される。その後も唐代を通じ、継続的に 城壁、城楼、興慶宮などの建築物が増築され、当時の世界でも屈指の栄華を誇った大都市となった(下図)。

西安市

この宮城の規模が、だいたい今日の西安市の市街地に合致することとなる。このときの王宮の皇宮城壁と、今の西安市に残る明代の城壁は完全に一致しているという(韓建新城に由来。唐末期の説明参照)。また、唐代の 帝王陵、如昭陵、乾陵などの墳墓が、王都の周囲に配されていくこととなる。
その城域は 84.1 ㎢、東西に左右対称で、整然と区画された都市設計が施されていた。

日本京都の平安京もこの街割りを参考にしているとされる。長安城には 13の王朝が都を置くこととなった(合計 1200年)。しかし、軍事的利点から防御面にすぐれた関中盆地であったが、その立地は商業活動や農地開墾に限界がある閉鎖空間であり、経済と人口、交易規模が大きくなる後世の王朝にとっては手狭となってしまう。こうした理由から、宋代以降、より 東側(南京や 杭州など)へ王都が設置されるようになっていく。それでも、長安城が持つ西域勢力との 経済交流・軍事拠点として重要性は不動であった。

西安市

唐朝末期の 904年、節度使であった朱温(朱全忠)が唐皇帝の昭宗に自身の本拠地である洛陽へ王都遷都を強要し、後の 907年には唐皇帝に権力禅譲させ、後梁朝を建国することとなる(梁の王都は後に開封へ移転)。上地図。

この時代、長安城は唐代末期の戦乱と異民族らの度重なる侵入で荒廃し切っており、朱全忠により佑國軍節度使に任命された 韓建(855~912年)が長安城に駐屯した際、長安城壁の大改修工事を進めることとなる。
このタイミングで完成された新長安城が、後に「韓建新城」と呼称されるものである(下図)。

その城域は、かつての長安城の 16分の 1程度へ大縮小され、かつての皇城部分の 東、南、西の三面の城壁がそのまま転用され、そして宮城の南側の城壁を連結されて北側城壁としたものであった(北側にも城門が一カ所設置される)。
以降、この「韓建新城」には 大安府、安西路、西安府、京兆府などと呼ばれつつ、五代十国時代から元朝末期まで継承されていくこととなる。

西安市

1272年、元朝初代皇帝のフビライがその三男の忙哥を安西王に封じ、この地の統治を委ねることとなる。これに合わせ、城外の北東郊外に安西王府が建設される(下絵図)。唐代の大明宮の跡地あたりと推察される。

1279年には、京兆府が安西路へ改称される。後に安西王の反乱が勃発し、鎮圧後に安西国は廃止されることとなる。このとき、安西路は奉元路へ改称されている。
西安市

明代初期の 1368年に元王朝の王都「大都」を占領した初代皇帝の朱元璋は、配下の将軍らを派遣して今の山西省、甘粛省などを併合して行く中、翌 1369年に征虜大将軍に任じられていた 徐達(1332~1385年)が奉元路一帯を平定すると、京兆府が西安府へ改称されることとなった。この「西安府」の名称が、現在の「西安市」の由来となっている。
以降、明王朝は城壁の修築工事を繰り返し、今に残る西安古城の城壁が完成させるわけである。

翌 1370年、血族を重んじる朱元璋は次男の朱樉を秦王に封じると、同年すぐに西安府城の北東端に、内城・秦王府の建設工事が着手される。建物群が完成すると、直後の 1374~1378年に新たに城壁が建造されることとなる。1380年と 1384年には、それぞれ鼓楼鐘楼も増築された。以降、この秦王府は 王城(皇城)と呼称されるようになる。

西安市

1391年、朱元璋の長男で皇太子であった 朱標(1355年~1392年)が西巡し西安へ立ち寄った際、西安城への遷都まで真剣に議題するほどに賞賛された城郭であったが、全国巡遊を終え 王都・南京へ戻った直後に病死してしまったことから、西安遷都の計画は霧消してしまうこととなった。

結局、息子に先立たれた朱元璋は明朝 2代目皇帝として朱標の遺児であった文帝を即位させることとなる。

西安市

西安市

明末の 1643年、李自成の率いる農民反乱軍がこの西安城を占領し、北京へと進軍している(上地図)。

清代に入っても、西安城の規模は明代のまま継承される。これとは別に、城郭の北東部分に満州族軍が駐屯する防城が、また、城の南東部分には漢民族軍の防城が、それぞれ増築される。さらに、鐘楼の南西部に総督布院署などの行政庁舎が設置された。

清代末期の 1900年に義和団の反乱が勃発すると、西太后と光緒帝は北京からこの西安城へ避難し、1年近くも滞在している。

1911年10月22日、全国で反清の辛亥革命が勃発すると、西安でも武装蜂起が決行され、当時、西安城の全面積の 4分の 1を占めた満州族らの居住地、防城一帯が焼き払われ、西安城内の東部全域が死の一角と化してしまう。以後、国民党政府の治世下、この空白地帯に人々が大量流入するようになり、 新興商業エリアとして発展していくこととなる。西安市は国共内戦時代でも引き続き、国民党の重要拠点の一つであり、まさにこの地で西安事変が起こったわけでけである。

国民政府時代の 1928年、長安城一帯は西安市として昇格され、今日に至ることとなる。

西安市

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西安市中心部には、かつての長安城の堀川や城壁の大部分がそのまま残されており、以前の城壁都市の形状を実感するのに、非常に有意義な街である。その路地名にもかつての名残が数多く残されている。

なお、最寄りの西安咸陽空港から西安市内行の空港バスは、それぞれの行き先ごとに空港バス発車されている。一律 25元。

西安市 西安市

また、宝鶏市、漢中市、天水市など、郊外都市へも長距離バスの発着所がある。各方面 ⇔ 西安咸陽空港のバス時刻は 空港サイト で確認できる。
西安咸陽空港では、イミグレを超えた搭乗ゲート・エリアだと、無料 Wifi あり。イミグレ前の出発 ロビー・到着ロビーには Wifi なし。


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