BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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海南省 五指山市 ~ 人口 12万人、一人当たり GDP 28,000 元


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  五指山(海南島の最高峰 1,867 m)にある、初保村(原住民・黎族の集落観光地)
  海南瓊崖縱隊司令部遺跡(共産党本部跡。今の 五指山市毛陽鎮毛貴村)



【 五指山市の 歴史 】

海南島中央の山岳地帯に位置する五指山市は(下地図)、同島に古くから生息する黎族の伝統的居住区として有名である。古代百越民族の一派である 駱越族(現在のベトナム人の祖先)の末裔、と考えられている。
島内では、3000年前の新石器時代の遺物が複数、発掘されており、かなり古くから人類が生息していたことが確認されている。

五指山市

黎族の各部族は「峒」という単位で呼称され(下地図)、度々、抗争と連携を繰り返してきたという。古くから、この各峒をまとめ上げる連合団体が結成されており、母系氏族社会を特徴とする黎族らしく、伝統的に女性がこのリーダーに選出されてきた。

その代表例が、南宋朝廷より宜人に任命された、黎族「三十六峒統領」の 王二娘(?~1216年)であった。彼女の 母・黄氏(1131~1162年ごろ、当地に帰化した新参グループの出身)も、諸峒の抗争を平和的に調停する手腕を発揮し、南宋朝廷から 宜人(瓊管安撫司)に任命されており、1181年、その娘の王二娘が宜人を継承し、さらに島内の黎族 36峒をまとめ上げ、その安定に成功したという(彼女の 夫・呉氏も、黎族の名門の家系で、代々、地元グループのリーダー格であったという)。王二娘の死後、さらに別の女性がリーダーを継承したと伝えられている。

五指山市

以後、清代の文献にも、黎族内部で紛争が発生した場合、女性たちが調停を行い、和平が保たれてきたことが言及されており、この習慣は中華民国時代にも継承されていたという。

この黎族の言葉で、「山間部の谷間に設けられた棚田」を意味したのが「通什(tōng zá)」で、この海南島の中央部の盆地地区は、古くから「通什峒」エリアと通称されてきた。上地図。

五指山市

清代末期の 1887年、海南島内で黎族の部落間抗争が激化した際、広西提督にあった 馮子材(1818~1903年)が軍を率いて鎮圧すると、島内奥地への中央集権体制の浸透を図り、通什峒エリアを流れる 南聖河(通什河)を境として、北岸側は 定安県(1369年開設。今の 海南省定安県 定城鎮)の、南岸側は 崖県(今の 海南省三亜市)に統括させることとした。上地図。
以降、中華民国時代の 1935年以前まで、通什峒エリアは、崖県、定安県、陵水県(今の 海南省陵水黎族自治県)に分かれて監督されていた。

1935年3月、現在の五指山市域の周辺に、白沙県(今の 海南省白沙黎族自治県)、 保亭県(今の 海南省保亭黎族苗族自治県)、楽安県(翌 1936年、楽東県へ改称。今の 海南省楽東黎族自治県)の 3県が新設される。 共産党時代の 1956年12月には、通什郷、福建郷、福安郷の 3郷が合併され、通什鎮が新設される。1986年6月12日に通什市へ改編され(下地図)、2001年7月5日、五指山市へ改称されて、今日に至る。

五指山市


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