BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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内モンゴル自治区 烏海市 ~ 人口 55万人、 一人当たり GDP 104,000 元


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 特になし



【 烏海市の 歴史 】

旧石器時代より人類の生息が確認されており、特に紀元前 6世紀から 2世紀にかけては遊牧騎馬民族によるオルドス青銅器文化が栄えていた。そこへ、紀元前 127年、前漢朝 7代目皇帝・武帝が軍勢を送り込み、この地に割拠していた匈奴族の楼煩王や白羊王を討伐し、高原一帯を征服する。その範囲は、今のバヤンノール市の烏加河より南側一帯とされており、オルドス地方全体であった。秦代に開設されていた九原郡を五原郡へと改め、さらに朔方郡を追加新設した(郡役所は三封県 ー 現在の麻弥図庫廟古城跡)。朔方郡の下には 10県が置かれ、ちょうど今日の海勃湾地区に沃野県が設置された。
そして紀元前 120年、沃野県城(今の 海勃湾区北新地にある古城跡)が築城される。また、その翌年に南匈奴の渾邪王が前漢王朝に帰順することになり、その領有地であった烏達地区は武威郡の北側部分に併合されることになった。

そして、後漢末から 三国時代、晋王朝、五胡十六国時代において、北方の遊牧民族「匈奴、鮮卑、羯、氐、羌」らは「五胡」と呼ばれるようになり、その多くが漢時代の長城を超えて南下し、黄河流域沿いに勢力を伸ばすようになる。中原が南北朝に分かれ、特に華北地域で十六国が入り乱れて盛衰を繰り返した300年にも及ぶ戦乱の時代、これら北方騎馬民族の「五胡」はますます力を蓄積し、 それぞれの民族どうしで抗争を繰り返しつつ、中原勢力を圧迫していった。そのうちの鮮卑族による北魏王朝が、ついに中国河北一帯を統一するまでにのし上がっていく。

この後、北魏王朝は東西に分裂し、その西魏王朝を引き継いだ北周から権力禅譲された隋王朝により、300年ぶりに中国全土が統一されることになる。 隋朝の時代、海勃湾地区は突厥の版図下にあり、また、烏達地区は甘州に帰属した。甘州役所は、永平(今の 甘粛省張掖市)に置かれていた。602年には、粛州(州役所は福禄 ー 今の 甘粛省酒泉市)の帰属とされる。
唐代も隋と同じ統治形態が引き継がれるが、安史の乱の後、国力を大幅に低下させたため、吐蕃国(チベット族)に数十年間、占領された時期もある。

五大十国の時代、党項族の趁宋が決起し、銀、夏、緩、宥、静の 5州を占領するまでに台頭する。後を継いだ李彝は、宋王朝と朝貢関係を結び、オルドス地方の大部分を宋へ割譲される。しかし、その統括権は引き続き、李彝に与えられた。
1038年、党項族の李元昊が北宋朝貢関係を破棄し、西夏国を建国する。

その後、強勢を誇った西夏国も、モンゴル帝国初代皇帝の チンギス・ハーンによる 4回もの侵攻を受け、ついに 1224年、首都を包囲され全面降伏、1227年に皇帝が暗殺されて、完全に滅亡するに至る。そのままモンゴル軍は金王朝を攻め、華北地帯まで侵攻するも、江南地帯に立てこもる南宋との長期にわたる対立が始まることになる。
フビライによって元王朝が建国された後、1288年、この烏海市一帯は 寧夏路(役所は今の銀川市に開設)に帰属されることとなる。

烏海市

モンゴル勢力を北へ追いやった明王朝時代、烏海市一帯は甘州と粛州の外側にあって、対立する両国の緩衝地帯に位置した。すぐ南の銀川市までは万里の長城の守備兵が駐屯していた。1376年、隴西都司の下、寧夏衛が設置され、後に寧夏鎮へと昇格される。ここが現在の海勃湾地区を管轄することになった。しかし、引き続き、モンゴル軍は南下をねらうも、内部分裂が続き、次第に弱体化していく。明王朝の永楽帝は 5回にわたってモンゴル遠征軍を繰り出し、占領地を北へと拡大していった。しかし、明軍の勝利も長くは続かず、1449年の土木の変では、親征した明王朝の正統帝自身が捕虜となってしまい、交渉の結果、返還される自体に陥った。明王朝はモンゴルのさらなる南下を恐れるも、モンゴル側の内紛はさらに激しさを増し、明侵攻は実現されずに月日が経つ。この間、モンゴル高原は内戦で荒れ果て、多くのモンゴル人が中国側へ避難してくる。特に、モンゴル人の一部族の「オルドス部」の人々が、黄河以南から万里の長城までの一帯に多く移住してきたので、現在、この地域はオルドス高原と呼ばれるようになったという。

烏海市

明朝滅亡後の清国建国にともない、この地域の 遊牧民族首領「額哲臣」は清への忠誠を近い、領土を安堵されることになる。清王朝はこのころから漢民族の移住を奨励し、モンゴル族との文化融合を図って統治体制の構築を進める。また 1649年、清朝はこの地域を 6旗に分割して、統治制度の導入を図る。海勃湾地区はオルドス右翼中旗に帰属することとされた。 1697年、阿拉善と碩特旗が管轄役所として新設され、烏達地区は前者に属すことになる。このまま清末まで続くことになる。

なお、烏海市は南に銀川市があり、ここが行政に中心地であったため、古代より特別、行政庁や城壁都市は設置されてこなかった。このため現在、市域内には遺跡らしい遺跡は残っていない。


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