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温州市
訪問日:20--年--月-旬 『大陸西遊記』~
浙江省 温州市 ~ 人口 920万人、 一人当たり GDP 50,000 元
➠➠➠ 温州市内の 城跡リスト ➠➠➠
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温州府城(【二代目】永寧県城、永嘉郡城)
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東瓯王国時代の 王城跡(【初代】永寧県城)
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永昌堡城(対倭寇用の軍事要塞遺跡)
【 温州市の 歴史 】
当地では紀元前 2500年ごろ、新石器時代後期を迎えた古代人類の生息が確認されているという。市内では、この時代の古代遺跡が 100箇所以上も見つかっており、農耕漁業生活が営まれていたことが証明されている。
春秋戦国時代、越国の版図下に組み込まれるも、紀元前 334年、楚国の威王が 越領への侵攻を開始すると、朝廷内の内紛で抵抗もままならなかった越王の無疆 (臥薪嘗胆の故事で有名な越王勾践から 6代目孫にあたる)は捕縛され、そのまま 処刑されてしまう。この時、江南地方一帯の越領は楚に併合されてしまうのだった。
しかし、越の残党勢力は浙江省南部へと退避し、引き続き、小規模な独立勢力を 保つこととなるも、最終的に紀元前 306年に楚の懐王が追討軍を派遣し、 その残党勢力も完全に滅亡に追い込まれてしまう。
越国の王族や貴族らの一部らはさらに福建省 北部(瓯越と通称された)にまで逃れ、 「東瓯国」という自治勢力を形成し存続したとされる。下地図。
越領を吸収し一時的に強大化した楚国も紀元前 224年、秦国により滅ぼされる。最終的に、紀元前 221年に斉国を下した秦により中原統一が完成されると、中央集権体制の確立が進められ、全国が 36郡の行政区に分割される。 しかし、この時、まだ現在の温州市一帯は 統一帝国・秦王朝の影響下に組み込まれていなかった。
紀元前 219年~前 210年までの 10年にも及ぶ秦の嶺南遠征を経て、この浙江省南部から福建省一帯も、ついに武力併合されることとなった。直後に閩中郡 (郡役所は 閩侯県城【現在の
福建省福州市
】に開設)が新設されると、今の 温州市域はここに帰属された。
始皇帝の死をきっかけに中国全土で農民反乱が勃発すると、旧六国出身の貴族らも挙兵する。 このとき、旧越国の「東瓯」勢力をまとめていた 騶揺(楚に滅ぼされた越国最後の 国王・無疆の 次男・蹄の六世孫)の 下にも、各国から挙兵参加要請が度々、入ったという。
最終的に、天下をめぐる覇権争いは項羽と劉邦による楚漢戦争へと突入すると、騶揺(騶無諸)は、祖先の越を滅ぼした楚出身の項羽と敵対する決定を下し、劉邦方に与する。
前漢朝が建国されると、その功績が認められ、紀元前 192年、2代目皇帝・恵帝(劉盈)により、騶揺(騶無諸)は東海王に封じられる。 王都はそのまま東瓯に開設されたため、東瓯王とも通称されることとなった。下地図。
この東瓯の王都であるが、永寧江(瓯江)の 北岸(今の 温州市永嘉県内)に立地し、瓯王城が築城されていたという。 この時、騶揺が中原王朝の前漢朝廷から正式に東海王に封じられ、この温州市に王都を構えたことにより、 東瓯地方の文明開化がスタートしたと解釈されており、今でも「温州市開祖」として地元では崇拝されている。 越人らの風習であった入れ墨などが廃止され、また手工業などが導入され経済発展の基礎が形成されたのだった。
現に、彼は永嘉地主昭烈広澤王として神格化され、明代中期の 1467年には、華盖山東岳廟が東瓯王廟へと改称されたほどであったという(現在、 この敷地は小学校となっているが、廟所の門構えの基礎部分だけが残されている)。
騶揺(騶無諸)には二人の子がおり、長男の騶昭襄は哀侯に封じられ、そのまま東瓯王を継承したという。 次男の騶無励は騶侯に封じられ、その末裔が南越地方に勢力を築いたと考えられている。
しかし、その子孫の間で内紛が勃発すると、地場勢力の百越諸民族らを二分する戦いに発展し、最終的に閩越地方の統一戦を目指す 戦国時代へ突入することとなった。閩越の統一戦争が終結すると、続いて 紀元前 135年には、西隣の南越国の内紛に付け込み、その国境へ軍事侵攻を進めたため、前漢朝により東海王の称号がはく奪されると、 これに反発して前漢朝廷と対立するようになる。
匈奴を平定し北方国境を安定させた 前漢朝 7代目皇帝・武帝は大軍を南方へ派兵すると、 ついに紀元前 110年、南越国ともども、閩越国も滅亡に追い込まれることとなった。
以後、武帝により郡県制が導入され、会稽郡に組み込まれる(上地図)。 現在の温州市域は、章安県(今の
浙江省台州市
章安古鎮)の管轄下に属した。
時は下って後漢時代の 138年、章安県下の東瓯郷が分割され、【初代】永寧県が新設されると、 瓯江の北岸にあった東瓯王国時代の王城跡地に県役所が開設される。 こうして、現在の温州市で最初の県行政がスタートされたのだった。
三国時代の 257年、会稽郡の東部が 分離され臨海郡が新設されると、郡役所が 章安県城(今の 浙江省台州市章安古鎮)内に併設される。このとき、永寧県も臨海郡に属した(下地図)。
東晋朝の治世時代の 323年、臨海郡が温嶠嶺より南で分割され、永嘉郡が新設される。 郡役所が永寧県城に併設され、永寧県、安固県、横陽県、松陽県の 4県を統括することとされた(下地図)。
あわせて、新たに【二代目】永寧県城(永嘉郡城)が瓯江の南岸に築城されることとなり、 現在の温州市旧市街地の誕生につながるわけである。
当時の資料から、当初の城壁は高さ 11.5 m、全長 1 km程度であったという。 この時、北岸の 旧永寧県城(旧東瓯王都城)の資材も南岸へ移築され、 旧県城は跡形も無くなったと考えられる。
なお、南岸の新城郭都市は鹿城とも別称されたという。 伝説では、白い鹿が花を口に咥えて城外を一周して走り去った、というエピソードに由来するという。 この別称が、現在の温州市鹿城区の名称へ継承されているわけである。
時は下って、南北朝時代を統一した隋朝初期の 589年、永寧県、安固県、横陽県、楽成県の 4県が合併され永嘉県となる。 このとき、処州に帰属された。それから 3年後、処州は括州へと改名され、その州役所が 括蒼県城内(今の
浙江省麗水市蓮都区
)に開設される。
隋朝 2代目皇帝・煬帝の治世下の 607年、括州は永嘉郡へと改名され(群役所は引き続き、括蒼県城内に設置)、 そのまま 永嘉県、括蒼県、松陽県、臨海県の 4県を統括したという(戸籍調査が行われ、合計 10,542 戸が確認される)。
唐朝初期の 621年、永嘉郡は再び括州へ戻される。
675年、括州から永嘉県と安固県の 2県が分離され、温州(州役所は永嘉県城内に開設)が新設される(上地図)。 このとき初めて温州の名が歴史に登場する(四季を通じて温暖湿潤な気候から命名されたという)。
唐の玄宗皇帝の治世時代の 742年、温州は括州を吸収し永嘉郡へと改名され、4県を管轄するものとされた(合計 42,814 戸、241,690 名の戸籍を有した)。
758年、再び永嘉郡から温州府へと変更される。以後、温州府は永嘉県城を中心に 4県を統括する地方中核都市として、以後 1000年以上もの間、このままの行政区を継承していく(下地図)。
清末の 1911年、武昌蜂起の勃発により清朝の支配体制が崩壊すると、同年 11月29日、温州にて軍閥政府が成立し、徐定超が臨時都督に就任する。翌 1912年正月に南京で中華民国が建国されると、 同年 7月、全国で府制度が廃止され、温州府は永嘉県へ改編される。
共産党中国が成立すると、1950年5月、永嘉県が改編され、温州市が成立する。
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