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文昌市
訪問日:20--年-月-旬 『大陸西遊記』~
海南省 文昌市 ~ 人口 60万人、一人当たり GDP 50,000 元
➠➠➠ 文昌市内の 城跡リスト ➠➠➠
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文昌県城(紫貝県城、武徳県城、平昌県城)
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文昌宮(文昌歴史文化展館)、蔚文書院、孔廟(学宮)、弄堂、明倫堂、尊経閣、文昌公園
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文南老街(騎楼群)
【 文昌市の 歴史 】
春秋戦国時代まで、百越の地に区分けされていた。
前漢時代の紀元前 111年、武帝により南越国が滅ぼされると、海南島を含む華南地方全域が前漢朝の直轄地に組み込まれる。翌紀元前 110年、海南島内に 2郡 16県が開設された際、
今の文昌市文城鎮に紫貝県が新設される
(珠崖郡に帰属。下地図)。付近にあった紫貝嶺から命名されたという。
その後、海南島内の地元部族らが武装闘争を頻発させるようになり、直接統治体制の維持が困難となっていく。紀元前 82年夏に儋耳郡が廃止されると、配下の 5県は、
珠崖郡(今の 海南省海口市瓊山区龍塘鎮)
側へ移籍されるも、紀元前 46年春には、その珠崖郡と配下の諸県も閉鎖に追い込まれる。 以降、
朱盧県(今の 海南省海口市瓊山区旧州鎮)
が、大陸側の徐聞県城(今の
広東省湛江市
徐聞県。下地図)へ転出され、海南島を間接統治するスタイルが模索されることとなった(合浦郡に帰属)。ここから 600年間、実質的に中央朝廷の直轄支配が及ばない島となり、海南島(ちょうど日本の関東地方と同じ面積)は無法空間と化すわけである。
隋代の 607年、旧・紫貝県城の 跡地(今の 文昌市文城鎮)に、武徳県役所が新設される
(臨振郡に帰属)。下地図。
唐代初期の 622年、武徳県が平昌県へ、627年、文昌県へ改称される(崖州に帰属)。県城の南側に 文昌江(今の文昌河)が流れていたことから、命名されたという。下地図。
1995年11月7日、文昌県から文昌市へ昇格されて、今日に至る。
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