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濰坊市
訪問日:20--年-月-旬 『大陸西遊記』~
山東省 濰坊市 ~ 人口 930万人、 一人当たり GDP 58,000 元
➠➠➠ 濰坊市内の 城跡リスト ➠➠➠
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諸城県城(諸邑城、諸県城)
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益都県城(益都路城、青州府城)
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【2代目】臨淄県城
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平昌県城
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横県城
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昌県城
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石泉県城
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東武県城(【2代目】琅琊郡城、城陽郡城、【2代目】東武郡城、【2代目】高密郡城、密州城、【2代目】諸城県、防御州城、安化軍節度)
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昌安県城(平昌郡城)
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平寿県城(北海国の王都跡)
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高密県城(【初代】高密郡城、高密国の王都跡)
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姑幕県城(【初代】東武郡城)
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扶淇県城
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膠西県城
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淳于県城
【 濰坊市の 歴史 】
夏王朝、そして 商(殷)王朝の時代、濰坊市エリアには 斟灌国、斟鄩国、寒国、三寿国 などの封国が割拠した。
武王が 商(殷)王朝を滅ぼし、西周王朝を建国すると、翌紀元前 1045年、その軍師役であった 呂尚(太公望、斉太公、姜太公)を斉の地に封じる。呂尚は、その王都を 営丘(今の 山東省淄博市臨淄区)に開設する。これが春秋戦国時代の七雄の一角を占める斉国の誕生となる。
春秋時代期、濰坊市の一帯は 斉国、魯国、杞国、莒国 などに分かれて統括された。
紀元前 665年冬、魯国により、石屋山(今の廟山)の北東部で、濰河の南側 一帯(今の 濰坊市諸城市枳溝鎮喬庄)に諸邑城が築城される。
戦国時代期、市域の大部分は斉国に帰属されるも、 南部エリア(今の諸城市や 山東省日照市五蓮県の一帯)は魯国の版図下に組み込まれた。上地図。
紀元前 249年、魯国が楚国に滅ぼされると、その領土は楚に組み込まれる。現在の濰坊市諸城市内にあった斉の長城より北側は、引き続き、斉国の版図下に置かれた。下地図。
秦朝が中原を統一すると、濰坊市一帯は 膠東郡、臨淄郡、琅琊郡の 3郡に分かれて管轄される。
その秦朝も紀元前 206年に滅亡すると、翌 205年より楚漢戦争が勃発する。
漢軍の先鋒隊を率いた韓信は瞬く間に趙国を撃破し、斉国領へ侵入後、同国の 要衝・歴下城、続いて 王都・臨淄城を陥落させる。斉王の田広は、要害であった高密城へ逃亡し、同時に使者を遣わして項羽に救援を要請する(下地図)。
韓信軍は、高密城を取り囲むも、楚の 援軍(龍且ら)が到着したため、嚢沙の計(濰水の流れを利用した水攻め)でこれをせん滅する。田広は高密城から脱出を図るも、韓信軍に捕縛され処刑される。直後、韓信は斉国の統治のため、斉王に就任することとなる。下地図。
前漢時代、濰坊市エリアは、北海郡、琅琊郡、斉郡の 3郡と、甾川国、 高密国、膠東国の 3国に分かれて管轄された。当時、市域には 53もの県城が設置されていた。下地図。
戦国時代に新設された諸邑が、諸県へ昇格されたのも、この前漢初期の頃である。あわせて、平昌県、横県、昌県、石泉県、東武県(県内の東武山より命名)、淳于県(今の 濰坊市安丘市黄旗堡鎮杞東村)などが新設された。
7代目皇帝・武帝の治世下の紀元前 106年、琅琊郡(徐州に帰属)の郡役所が 琅邪県城(今の 山東省青島市黄島区琅邪台の北西部)から 東武県城(今の 濰坊市諸城市の中心部)へ移転される。下地図。
後漢時代、濰坊市域には 北海国(平昌県などを統括)、楽安国、斉国、琅琊国(80年に琅琊郡から改編。王都は 開陽県城【今の 山東省臨沂市の中心部】へ移転。東武県、諸県などを統括)の 4国と青州、そして徐州の 2州に統括される。上地図。
同時期、横県、昌県、石泉県が廃止される。
後漢末期の 192年、兗州長官に就任した直後の曹操に、山東省(青州)一帯に跋扈する黄巾賊討伐の勅令が下る。すぐに曹操自身も北海国下の 淳于県城(今の 山東省濰坊市安丘市黄旗堡鎮杞東村。前漢初期に新設され、北斉時代の 556年に廃城となる)まで進軍する一方で、夏侯淵や 張遼、徐晃、臧覇 などの諸将が分担して平定戦を展開し、黄巾軍の兵士 30万人、住民ら 100万人を降伏させ、自領の兗州へ強制移住させている(「青州兵」の誕生)。
この当時、朝廷から孔融が青州長官として派遣されていたが、自力では強力な黄巾軍を征伐することが叶わなかった。
曹操軍の撤退後、孔融が引き続き、青州に駐在するも、間もなく公孫瓚が田楷を、袁紹が長男の袁譚を青州長官として勝手に派遣し、両者の間で争奪戦が繰り広げられる。最終的に、孔融と田楷は追放され、青州一帯は袁譚の勢力基盤となる。下地図。
202年に袁紹が病死すると、袁譚と弟の袁尚との間で骨肉の争いが勃発し、袁尚が連勝すると、青州内の諸県は皆、袁尚側に寝返ってしまう。最終的に、袁譚を利用しつつ袁尚との戦いを有利に進めていた曹操により、袁譚も捕縛、処刑されるに至る(205年)。こうして青州は完全に曹操の勢力圏に組み込まれることとなる。
曹魏の治世時代、琅琊国は琅琊郡へ戻され、あわせて、城陽郡(郡都は東武県城)と平昌郡(郡都は昌安県城)が新設される。諸県はそのまま琅琊郡に、平昌県は平昌郡に帰属された。
濰坊市のその他のエリアは、北海国と斉国の 2国、楽安郡、東莞郡に分かれて管轄された。この当時、市域内には 20の県城が存在していた。
226年に魏の 3代目皇帝として曹睿(明帝)が即位すると、異母兄弟の 曹蕤(曹丕の子)が陽平県王に封じられる。後の 232年、曹蕤は北海王へ昇格される。このとき、北海王国の王都は 平寿県城(今の 濰坊市濰城区西関大街の一帯)に開設された。翌 233年に曹蕤が死去すると、北海国は北海郡へ再降格される。下地図。
西晋朝初期の 270年、東武県、諸県、平昌県の 3県は 城陽郡(郡都は 莒県城【今の 山東省日照市莒県】)に帰属された。
289年には、東武県と諸県が 東莞郡(郡都は 東莞県城)へ移籍される。300年に城陽郡が廃止されると、平昌県は青州下の 高密国(現在の 濰坊市高密市に南西部)に転入される。
南朝の劉宋朝の時代、東武県と平昌県は平昌郡へ移転される(青州に帰属)。一方、諸県は東莞郡に帰属した(徐州)。
北魏朝の 治世時代(500年)、東武郡が新設される。郡都は 姑幕県城(今の 濰坊市安丘市石埠子村)に開設された。
529年、青州から膠州が 分離・新設されると、 東武郡(郡都は 姑幕県城)と 高密郡(郡都は 高密県城【現在の 濰坊市高密市に南西部】)の 2郡を統括した。同年に 東武県(今の 濰坊市諸城市の中心部)の南部が分離され、扶淇県が新設されると、そのまま東武郡に帰属された。下地図。
北斉時代、東武郡が廃止され、高密郡の郡役所が 姑幕県城(今の 濰坊市安丘市石埠子村)から東武県城へ移転される。同時に 諸県、平昌県、扶淇県が廃止され、東武県に吸収合併される。上地図。
300年ぶりに南北朝時代を統一した隋代の 583年、高密郡が廃止される。 585年に膠州が 密州(州都は東武県城)へ改称される。598年に東武県が諸城県へ改称される(県城の南西 15 kmにある漢代の旧諸県城から命名)。諸城県はそのまま密州の州都を兼務した。
607年に、密州が高密郡へ改編されるも、引き続き、諸城県が郡都として君臨した。下地図。
現在の濰坊市エリアの北部は、そのまま北海郡に帰属された。
唐代の 622年、高密郡が密州へ戻される。以後、市域の北部は青州に、南部は密州に統括された。この行政区は、五代十国時代にも踏襲される。
北宋時代、市域は京東東路下の 青州、濰州、密州の 3州に帰属される(下地図)。 960年に密州は防御州へ改称され、972年に一時期、密州が安化軍節度へ昇格される(同年中にも防御州へ再降格)。最終的に、973年に再び、安化軍節度(京東東路に帰属)へ昇格される。
金代には、濰坊市エリアは山東東路下の益都府、及び濰州と 密州(州都は諸城県城。後に、安化軍へ改編される)の 2州に属した。
元代、濰坊市一帯は益都路総管府に統括される(中書省山東東西道宣慰司下に帰属)。この下にあって、諸城県は引き続き、密州の州都を兼務し続けた。
1266年、臨淄県(今の 濰坊市青州市の北関街の付近)が廃止され、益都県(今の 濰坊市青州市の中心部の南陽河の南岸)に吸収合併される(1278年に復活設置)。そのまま 益都路(中心都市は益都県城)に帰属された。
明代初期の 1368年、益都路が青州府へ改編される。また、翌 1369年には密州が廃止される。
以後、現在の濰坊市一帯は、濰州、莒州、膠州の 3州と、益都県(青州府の府都を兼務。下絵図)、臨淄県、博興県、寿光県、昌楽県、臨朐県、安丘県、諸城県、蒙陰県、沂水県、日照県、昌邑県、高密県、即墨県、高苑県、楽安県(広饒県)の 16県を統括した。1376年に 莱州府(府都は 掖県城【今の 山東省煙台市莱州市掖県東街】)が正式に新設されると、濰州、膠州の 2州都と、 高密県、昌邑県、即墨県の 3県が移籍される。
青州府と莱州府はともに、山東承宣布政使司に帰属した。
清代に入ると、そのまま明代の行政区が踏襲され、青州府下には 益都県(今の 濰坊市青州市の中心部の南陽河の南岸。上絵図)、臨淄県、博興県、高苑県、楽安県、寿光県、臨朐県、安丘県、昌楽県、諸城県(1369年に密州は廃止)、沂水県、日照県、蒙陰県 などの 13県と、安東衛と沂州を統括した。
1734年、沂州府が新設されると、青州府下の沂水県と 日照県(今の 山東省日照市の中心部)、 蒙陰県(今の 山東省臨沂市蒙陰県)、安東衛(今の 山東省日照市嵐山区の繡針河の河口部分)が移籍される。下地図。
また同年、益都県下の顔神鎮と 孝婦郷、懐徳郷が分離されて、博山県(今の 山東省淄博市博山県)が新設される。
以後、当地は 青州府(11県を統括)、莱州府、沂州府の 3府に属された(山東省)。下地図。
中華民国時代に入ると、濰坊市エリアにあった 濰県、昌邑県、高密県、益都県、寿光県、昌楽県、臨朐県、安丘県、諸城県の 9県はすべて 膠東道(道都は今の 山東省煙台市に開設)に帰属された。
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