BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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安徽省 銅陵市 ~ 人口 166万人、 一人当たり GDP 61,000 元


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  銅陵県城



【 銅陵市の 歴史 】

夏王朝、殷(商)王朝の時代、銅陵市一帯は揚州に属した。続く、周王朝の時代には、呉国、越国、楚国の版図下に組み込まれていた。
秦の始皇帝が中原を統一すると、鄣郡に帰属される。

前漢時代、鄣郡が 丹陽郡(郡都は引き続き、宛陵県城が兼務した ー 今の 安徽省宣城市宣州区)へ改編される。この時、丹陽郡下の 春谷県(今の 安徽省蕪湖市南陵県に流れていた、青弋江の河口西岸)と、陵陽県(今の 安徽省池州市青陽県)に分かれて統括された(下地図)。後漢時代、銅官鎮(今の 銅陵市義安区五松鎮)が新設される。
三国時代、銅陵市エリアは、孫呉の支配下にあり、丹陽郡下の春谷県と 臨城県(今の 安徽省池州市青陽県蓉城鎮)に属していた(下地図)。三国を統一した西晋朝の治世下でも、新設された宣城郡下の春谷県と臨城県に統括される。

銅陵市

東晋時代の 405~418年間、華北地方は大いに乱れ、山西省を中心に多くの流民らがこの地に流れ込んでくる。こうして人口が激増したことから、行政強化を図るべく、定陵県が新設される。県役所は、今の順安鎮に開設され、現在の銅陵市域とだいたい同じ範囲に定められることとなった。

南北朝時代、劉宋朝と斉の統治下にあって、定陵県は淮南郡に属した。続く、梁王朝、陳王朝の時代には、南陵郡に統括された。

隋朝の全国統一後、定陵県が廃止され、南陵県(今の 安徽省蕪湖市南陵県)に吸収合併される(宣城郡に帰属)。下地図。
唐代前期、引き続き、宣城郡下の南陵県が継承される。唐代後期に入ると、南陵県下の 工山郷、安定郷、鳳台郷、帰化郷、豊資郷の 5郷が分離され、義安県が新設される。県役所は、今の銅陵市順安鎮に開設された(そのまま宣州に帰属)。

銅陵市

五代十国時代初期も引き続き、義安県は宣州に帰属する。
南唐朝の治世下の 951年、義安県が銅陵県へ改称される(昇州に所属)。史上、初めて「銅陵」という地名が誕生することとなった。銅陵の造語であるが、正式な文字資料では判明されておらず、3つの説が唱えられている。一つは、銅鉱山の山々は近くにあったとことに由来すると考えられている。
あわせて、県役所が順安鎮から 銅官鎮(当時は、江滸とも別称されていた。今の 銅陵市義安区五松鎮)へ移転される。

銅陵市

北宋時代の 974年、曹彬が南唐朝を討伐した際、銅陵県城も攻略している(上地図)。以降、北宋朝の治世下にあって、最初は 江南道(路)に、後に江東路下の池州に統轄された。
続く元代も、銅陵県は江浙行省下の 池州路(後に池州府へ改編)に、明代にも池州府に属した(南京直隷府の直轄)。下地図。

清代初期も、銅陵県は江南左布政使司下の池州府に属する(江南左布政使司は後に江南省へ改編される)。 1667年、江南省が分割され、江蘇省と安徽省が誕生すると、銅陵県は 安徽省(一時期、徽寧池太広道へ改編)下の池州府に属した。下地図。

銅陵市

中華民国が建国された直後の 1912年1月、全国で府制度が廃止されると、銅陵県は安徽省に直轄される。

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