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鉄嶺市
訪問日:20--年-月-旬 『大陸西遊記』~
遼寧省 鉄嶺市 ~ 人口 306万人、 一人当たり GDP 33,000 元
➠➠➠ 鉄嶺市内の 城跡リスト ➠➠➠
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鉄嶺県城(銀州城)
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開原県城
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昌図県城
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康平県城
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西豊県城
【 鉄嶺市の 歴史 】
この地域では、7000年前の新石器時代から人類の生息が確認されている。原始的な古代型集落社会が長らく続けられていた時代も終わりを告げ、夏~商~西周王朝時代、この地区に青州が設置され、初めて中原王朝による行政制度が導入される。
春秋戦国時代、現在の鉄嶺市の南部分は燕国下の遼東郡に帰属するも、北部分は東胡族の支配領域として分かれた。秦王朝、前漢王朝はその領土をさらに拡大し、現在の鉄嶺市域すべてが遼東郡に帰属することになる。
しかし、後漢から三国分立を経て西晋時代、鉄嶺市域の南部分は玄菟郡に帰属したが、北部分の開原と昌図の一帯は南下した扶余族の支配領域となっていた。
南北朝時代、北朝側(前燕、前秦、後燕)の勢力が一時的に拡大し、現在の鉄嶺市域全部が玄菟郡の管轄下に入っていたものの、徐々に遊牧民族系の 契丹族(三国時代は鮮卑族を形成していたが、その残党勢力が契丹族へと発展している)が流入してくるようになる。
さらに、東方で力をつけてきた高句麗により、404年、後燕王朝から遼東半島全域が奪取される。以後 250年近くもの間、高句麗領となる。途中、隋王朝は 3度も高句麗遠征軍を発するも、すべて失敗に帰している。
唐王朝の時代、同じく 3度の遠征でようやく高句麗を滅亡させ(668年)、遼東半島一帯に新しく統治体制を整備する。この時、鉄嶺市域の南部分は安東都護府に、北西部分は枯漠都督府に、現在の昌図地区は渤海緑府と扶余府の下に帰属された。
713年、今の鉄嶺古城がある場所に富州役所が設置される。
917年、遼国はこの地で銀の精製所を設置したので、富州から銀州へと改名される。この時代、市域の大部分は東京道遼陽府に属した。
金王朝の時代、現在の鉄嶺市域の南部分は東京路咸平府、西部分は北京路、東北部分は上京路会寧府に属した。元王朝の時代、市域の西部は中書省会昌路、その他の地域は開原路咸平府の管轄下に入った。
明時代、鉄嶺衛が 銀州(現在の鉄嶺市街区)に設置されるも、1393年には瀋陽へ移転される。以後、南部分は遼東都指揮使司鉄嶺衛に、西部分は遼河套扶余衛,北部分は三万衛に帰属することになった。
1616年、後金国を建国したヌルハチは、1621年に遼東半島への侵攻を本格化し、各所にある明側の拠点を陥落させていく。そのうちの一つが鉄嶺衛であった。同年内に半島全域を占領することに成功する。1626年、さらに南下して山海関を超えて北京への遠征を決行するも、寧遠城の戦いで、西洋式大砲の前に敗北し、ヌルハチ自身も負傷して間もなく死亡することになる。
ヌルハチの死後、2代目皇帝に就いたホンタイジの後継者となった 3代目皇帝 アイシンギョロ・フリン時代の 1644年、ようやく北京にて清が中国全土を平定する。それからすぐ全国の行政制度改革が行われ、中国東北部においては、奉天将軍と吉林将軍、黒竜江将軍が設置され、奉天には奉天府が開設されている。 1664には、衛制度が廃止され、県制度が再採用される。このとき、奉天府の下に鉄嶺県と開原県が帰属することとされた。ロシア勢力の南下にそなえ、1877年には、昌図庁が昌図府へと改編され、さらに 1907年、奉天将軍が廃止され、奉天巡府が新設された。清朝末期のころには、現在の市域にあたる 鉄嶺県、開原県、昌図県、康平県、西豊県の 5県は、奉天省に帰属した。
上地図は、開原県城と周辺の柳条辺。
中華民国に入り、行省県制度が導入され、 奉天省遼瀋道に改組され、 1929年2月5日に、奉天省が遼寧省へと改名されている。
なお、この鉄嶺(銀州)古城であるが、今日では完全に城壁も撤去されており、かつての面影もわずかな路地名に残されているのみである。銅鐘街、白塔。
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