BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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安徽省 宿州市 ~ 人口 575万人、 一人当たり GDP 33,000 元


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  符離県城(【二代目】宿州城、埇橋の町)
  竹邑県城
  相県城(泗水郡城、沛郡城)
  蕭県城(沛郡城、承高県城、龍城県城、臨沛県城)
  取慮県城
  臨渙県城
  銍県城
  僮県城
  碭県城
  碭山県城(下邑県城、輝州城)
  蕲県城(蕲邑城、蕲郡城、蕲城郡城、蕲城県城)
  虹県城(【初代】宿州城、泗虹州城、泗州城、虹郷城)
  夏丘県城
  霊璧県城(零璧県城)



【 宿州市の 歴史 】

春秋戦国時代期、このエリアには 宿国、蕭国、徐国などの、小規模な諸侯国家が割拠していた。

秦の始皇帝が中原を統一すると、全国に郡県制が導入される。現在の宿州市域は、この時に新設された泗水郡と碭郡の 2郡に分かれて管轄された(下地図)。
もともと中原に位置したこともあり、各地には既に一定規模の都市が形成されており、それぞれ県役所が配されていた。符離県、相県(泗水郡の郡都を兼務)、取慮県、銍県、僮県、蕲県(楚国支配時代の蕲邑に端を発する。紀元前 224年、秦の 大将軍・王翦が 楚将軍・項燕を戦死させた、蕲南の戦いの現場)など。下地図。

宿州市

前漢時代の紀元前 202年、碭郡が碭県へ降格され、代わりに封国として梁国が新設される。王都は、睢陽県城(今の 河南省商丘市睢陽区)に開設された。最終的に、梁国は王位継承者の子供がなく、紀元前 144年に解消され、済陰郡へ改編されてしまうわけだが、この封国は前漢王朝でも最大最強を誇っており、朝廷に大きな影響力を持っていくこととなった。

王莽が新王朝を建国した 9年、蕲県が蕲城県へ、碭県が節碭県へ、符離県が符合県へ改称されるも、間もなく、新王朝も崩壊すると、再び元に戻される。後に後漢王朝を建国する 劉秀(紀元前 5年~57年)は、この混乱期、蕭王に封じられ、蕭国(下地図の〇=蕭県)を中心に、新王朝打倒のため河南省一帯を転戦しており(23年ごろ)、その過程で宿州市エリアも縦横無尽に移動していた。

後漢時代の 79年、明帝・劉庄の第七子である 劉暢(?~98年)が梁王に封じられると、梁国が再び建国される(後漢末に曹操によって廃止されるまで存続する)。その王都は、睢陽県城(今の 河南省商丘市 睢陽区)に開設され、その下に 下邑県(現在の 宿州市碭山県)、虞県、碭県、蒙県、谷熟県、焉県、寧陵県、薄県が配された。

後漢末期の 220年、曹操が沛国や梁国を分割し、譙郡を新設する(豫州に帰属)。この時、竹邑県、相県、符離県(今の 宿州市埇橋区符離鎮)、銍県、蕲県などが譙郡へ移籍される。下地図。

宿州市

三国時代の 229年、曹操の 子・曹熊(190年代?~3世紀?)が蕭王に封じられ、蕭国(上地図の〇=蕭県)が建国されるも、 232年には廃止される。234年、そのまま蕭県が復活され、譙郡下に復帰された。

西晋時代の 295年、碭県が廃止され、下邑県(現在の 宿州市碭山県)に併合される。


東晋時代の 317年、沛郡役所が相県城から蕭県城へ移転されるも、 357年、沛郡、譙郡ともに、北方民族系の前燕国により占領されてしまう。その前燕国も 370年に滅亡すると、前秦に併合される。384年、南の東晋朝の北伐により、中原地帯の領土が回復される。

南北朝時代の南朝を構成した 東晋、劉宋、南斉が引き続き、この地域を支配するも、五胡十六国時代の華北を統一した北魏により、中原地帯が圧迫を受けるようになる。華北から迫る北魏に対し、前線となった蕲県は 502年、蕲郡へ昇格されるも(西徐州に帰属)、結局、朝廷自体が内部崩壊し、梁朝が建国される。

しかし、北魏の圧力は続き、とうとう現在の宿州市域も併合されてしまうと、526年、下邑県が廃止され、碭県が復活設置されると、安陽県と共に、新設された碭郡を構成することとなる。
東魏時代の 548年、夏丘県が晋陵県へ、さらに泗州県へ改称される。また、蕲郡も蕲城郡へ改称される。同時に、蕲県が蕲城県となり、蕲城郡が蕲城県を統括した。
北斉時代の 556年、蕭県が承高県へ改名され、徐州彭城郡に帰属される。

宿州市

隋朝文帝の治世下の 586年、承高県が龍城県へ改称され、蕲城郡が廃止される。また蕲城県が蕲県へ改名され、蕲県は仁州に属した。
598年、安陽県が廃止され、碭山県が新設される。

煬帝の治世時代の 605年、仁州が廃止されると、蕲県は 徐州(607年4月、徐州が彭城郡へ改称される)側へ移籍された。 蕲県はそのまま 徐州(彭城郡)に属した(上地図)。また、龍城県が臨沛県へ、さらに後に蕭県へ改名される。

唐代の 623年、夏丘県が分離され、虹県が新設される。同年内に夏丘県の残りのエリアも虹県側へ移籍され、最終的に夏丘県が廃止される。 634年、虹県が泗州に属する。
809年、宿州が新設されると、州都が 虹県城(今の泗県)に定められ(【初代】宿州城)、虹県、蕲県、符離県の 3県を統括した。 814年には、亳州下の臨渙県が宿州側へ移籍されてくる。しかし、829年、宿州はいったん廃止されるも、833年に再復活されると、州都が 符離県城(今の 宿州市埇橋区符離鎮)に定められることとなった(【二代目】宿州城)。以後、符離県、虹県、蕲県、臨渙県の 4県を統括した。下地図。

宿州市

901年、碭山県城に輝州役所が開設されると、州都を兼務する。

五代十国時代の後唐王朝時代の 925年、碭山県は単州に属した。
後周王朝の 958年、蕭県は徐州武定軍節度に属した。

北宋時代の 972年、宿州の軍事地位を強化すべく、保靖軍節度が新設され、淮南路に属した。 1072年、淮南東路に属する。1086年、虹県下の零壁鎮巡検司が分離され、零璧県(1117年に霊璧県へ改称)が新設されると、宿州に属した。下地図。

下地図は、満州地方から南下してきた金王朝により、宿州も失陥した後の南宋勢力図を示す。以後、南宋朝と金王朝は、淮河を挟んで一進一退の攻防戦を繰り広げることとなった。

南宋朝の 2代目皇帝として 孝宗(趙伯琮。1127~1194年)が即位すると、翌 1163年、自ら中原奪取を掲げて軍隊を大召集し、大規模攻勢をしかける(この過程で、 1142年に処刑されていた岳飛の名誉回復も行っている)。南宋軍は宿州下の 霊璧県城、虹県城などを占領し、宿州の州都であった符離県城下まで進軍するも、数か月の戦闘を経て潰走を始めると、金軍に徹底的に蹂躙されて大敗を喫する(符離の戦い。符離鏖兵)。以後、北伐戦力を喪失した南宋朝廷は、金朝との和平工作を迫られ、屈辱的な隆興の和議を締結させられる。これ以降、40年以上もの間、両国の戦闘はなくなり、束の間の平和がもたらされることとなった。

この間の 1217年、碭山県城が黄水の氾濫により水没すると、県役所が虞山保安鎮(今の 河南省商丘市 永城市)へ移転される。モンゴル人政権による元代の 1257年、再び、県役所が旧城へ戻される。

宿州市

しばしの和平の後、南宋朝と金王朝は再び、戦火を交えるようになるも、モンゴル高原でモンゴル族が台頭すると、情勢は一転する。1234年5月に南宋朝はモンゴル軍と連携し、金王朝を滅ぼすも、今度はより強力なモンゴル軍と対峙することとなるのだった。

こうした緊迫した情勢下の 1257年、南宋朝は、宿州下の荊県荊山鎮に荊山県を新設し、懐遠軍(今の 安徽省蚌埠市 懐遠県)に帰属させる(2段上の写真)。また、1271年には虹県内から五河県を 分離・新設し、淮北東路淮安軍に統轄させた。この軍機構はいずれも淮河の北岸側に位置し、南宋軍の最前線を担ったため、これらの県城管理も担当させたのだった。

しかし、モンゴル軍の攻勢は素早く、瞬く間に淮水を渡河し、長江北岸まで領地を拡大させる。モンゴル軍占領時代の 1265年、人口の激減した宿州下の 蕲県、臨渙県、符離県(今の 宿州市埇橋区符離鎮)の 3県が一時廃止され、すべて 宿州(宿州城自体は、旧・符離県城をそのまま使用。符離県という行政区が消滅された)に直轄される。同時に、蕭県や永固県も一時廃止され、徐州に直轄された。
ちょうど同年、碭山県では深刻な水害が発生し、人口が大きく減少したため、県役所が一時廃止され、単県に吸収合併されるも、翌 1266年、碭山県が復活設置され、済州に帰属される。
1267年、宿州下の霊璧県が、泗州の管轄下へ移籍される。1275年、蕭県が復活設置されると、河南行省歸徳府に統括された。1276年には、泗州下の虹県が、宿州へ移籍される(1280年、再び泗州側へ戻され、代わりに霊璧県のみが宿州に帰属し続けた)。

元朝が着手していた大運河工事により、1324年、新運河・汴渠(汴河)が黄河と泗水を接続し、淮水へのルートが確保されると、宿州内に通過していた 運河・汴渠は廃止され、一帯の経済は停滞してしまう。この頃、埇橋の 町(符離集落と通称された。旧符離県城があった場所で、今の 宿州市埇橋区符離鎮)も、ますます寂れることとなった。

宿州市

モンゴル勢力を北方へ駆逐し、明王朝が建国された直後の 1368年、宿州(州城は、そのまま 旧・符離県城を使用。霊璧県、虹県の 2県を統括)は臨濠府に、 1374年以降は鳳陽府に所属された。
また、1379年以降、蕭県と碭山県は(南直隷)徐州に属した。上地図。

清朝が当地を併合した 1661年以降も、引き続き、宿州(散州へ降格される)は、江南左布政使司下の鳳陽府に属した(上地図)。1725年には、泗州が直隷州へ昇格される。また碭山県と蕭県は、そのまま徐州府に統括された(1733年、江蘇省成立)。

1777年、泗州役所が虹県城内へ移転されると、虹県城が泗州の州都を兼務する。当初、泗虹州と改名されたが、間もなく泗州に戻された。そのまま虹県自体は廃止され、虹郷へ降格される。
中華民国が建国されたばかりの 1912年、全国で州府制度が廃止されると、宿州は宿県へ改編される(霊璧県と泗県と共に、安徽省に直轄)。対して、碭山県と蕭県は、引き続き、江蘇省側に属した。


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