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宿遷市
訪問日:20--年-月-旬 『大陸西遊記』~
江蘇省 宿遷市 ~ 人口 490万人、 一人当たり GDP 50,000 元
➠➠➠ 宿遷市内の 城跡リスト ➠➠➠
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下相県城(鐘吾国王都、項羽故郷、【2代】宿豫県城、【初代・4代】泗州城、宿遷県城)
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宿預県城(宿預郡城、東徐州城、【初代】宿豫県、下邳郡城、【2代】泗州城)
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臨淮県城(【3代目】泗州城)
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凌県城(泗水国の王都跡)
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虹県城(【5代目】泗州城)
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夏丘県城(夏丘郡城)
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泗上城(徐国の王都跡、徐県城、臨淮郡城)
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泗陽県城(桃源鎮城、桃源県城)
【 宿遷市の 歴史 】
淮河流域の宿遷市泗洪県にある天崗湖で長臂猿人の化石が発見され、 今から 5万年以上前に当地で古代原人の集落地があったことが証明されると、 アジアに残る最古の人類遺跡の一つとして大いに注目を集めたという。下草湾人文化遺跡と命名されている。
夏王朝、商王朝、周王朝の時代には、古族の一つである徐夷が割拠するエリアであった。
西周朝を建国した武王により、古来からの名家であった 伏羲氏(新石器時代末期に中原を統一した伝説の名門家系。中華民族の祖先とされる)の一族が 宿の地(今の山東省泰安市東平県の南東部)に封じられる(宿国の誕生)。下地図。
しかし、春秋時代を通じて、宿国は東西の斉国や魯国などから圧迫を受け、徐々に、その領土を現在の宿遷市まで移転されていったと考えられている。
最終的に紀元前 684年、宿国は宋国に滅ぼされる。その後、強大化した宋国も、紀元前 286年に、斉国、楚国、魏国の 3か国連合軍により滅亡に追い込まれた。
また、その南に君臨した徐国であるが、夏王朝の時代から続く名家で、 この地に長らく割拠し、諸封の一角を成して、泗上城(今の 宿遷市泗洪県)に王都を開設していた。 西周王朝にもそのまま帰順し、当初は東夷諸国の中でも最大勢力を誇っていたという。しかし、 春秋時代を通じて、度々、南の楚国から領土浸食を受け、ついに紀元前 512年、呉国に滅ぼされることとなる。下地図。
これより少し前、現在の宿遷市一帯には鐘吾国も割拠したが、後に徐国に併合される(上地図)。
春秋時代後期、呉国(君主は闔閭)は度々、楚国と戦争を繰り返しており、 その周辺に位置した鐘吾国と 徐国(王都は今の 宿遷市泗洪県)は、中立の立場を取り続けていた。上地図。
そんな折の紀元前 515年、楚国との戦闘の間に、留守中の自領に侵入した 越国(国王:允常)に大いに苦しめられた呉王の闔閭は、国内の立て直しが急務となる。
呉王の闔閭は、周辺国への影響力を高めるべく、紀元前 512年夏、鐘吾国と徐国に兵士の提供と、王子(掩余と烛庸)の人質を要求する。これを無視して、両国は楚国へ王子を逃亡させてしまう。
これに激怒した呉王の闔閭は、名将の 孫武(孫子)と 伍子胥(伍員)を派遣し、もともと貧弱だった鐘吾国と徐国は抵抗らしい抵抗もできずに、滅亡に追い込まれてしまう(紀元前 512年。下地図)。以後、旧領はすべて呉国に併合された。これが、世に有名な二公子事件となる。
このとき、呉国と戦闘状態にあった楚国は、この二人の皇子を厚遇し、养の地(今の 河南省周口市沈丘県)に城郭を新築して、領地を分与するほどであった。
これは、呉国への牽制をねらった楚国の策略で、彼らを国境地帯に配すことで、徐国と鐘吾国の残党勢力を糾合して、呉国を包囲する体制を整えたわけである。
最終的に鐘吾国と徐国を滅ぼした呉国は、そのまま勢いに乗り、越国(紀元前 496年に、宿敵であった越王の允常が死去し、皇太子の勾践が国王に即位したばかり)へも侵攻を開始する。 しかし、越軍の反撃を受け、呉王の闔閭は敗死することとなる。
これを継いで、呉王として夫差が即位すると、有名な呉越の死闘が開始される。最終的に、呉王・夫差の留守をねらって呉国に攻め込んだ 越王・勾践により、紀元前 473年、呉国も滅亡に追い込まれる。
その直後の紀元前 471年、越国に併合されたばかりで未だ混乱止まない旧呉国領に侵入した楚国は、旧鐘吾国領を含む、 多くの土地をその領土に編入することに成功する。以後も、徐々に楚国に追い込まれた越国は、最終的に紀元前 334年に滅亡してしまう。下地図。
紀元前 223年に楚国が秦の始皇帝により滅ぼされると、旧鐘吾国の王都跡地に 下相県(現在の 宿遷市宿城区の南西にある古城街道一帯。旧黄河の河道沿い)が新設される。
なお、これより少し前の紀元前 232年、この下相県となる地にて、後に西楚の霸王となる項羽が誕生している。
また、旧徐国の 王都・泗上城跡には、徐県(今の 宿遷市泗洪県)が新設された。
前漢時代に入っても、下相県と徐県が踏襲される(臨淮郡に所属)。
前漢朝 7代目皇帝・武帝の治世時代の紀元前 113年、臨淮郡の一部が分離され、泗水国が新設されると、その王都は 凌県城(今の 宿遷市泗陽県衆興鎮凌城村)に開設され、凌県、泗陽県の 2県を統括することとなる。下地図。
最終的に 37年、後漢朝を建国した光武帝により泗水国は廃止され、泗水郡へ再編される。
後漢朝、西晋朝から東晋時代に至るまで、この行政区が踏襲され、 東晋時代の 405年、下相県(現在の 宿遷市宿城区の南西にある古城街道一帯。旧黄河の河道沿い)が放棄されて、 宿預県城が、現在の 宿遷市宿城区鄭楼鎮古城山の南側の山麓に、新たに築城される(現在も古城遺跡として地元で保存されている)。
以後、南北朝時代から隋代にかけて、宿預県城(今の 宿遷市の南東部)は下相県城に代わって、泗水郡(後に、泗州、安州へ改称)の中心都市を兼務し続けた。
北魏朝の時代、宿預県城は宿預郡の郡都を兼ね、また梁朝の時代には、東徐州の州都を兼ねた。
東魏朝の時代には、東楚州の州都となり、この時、宿豫県へ改称されている。
また、陳朝の時代には安州の、北周朝の時代には泗州の、そして隋朝時代には下邳郡の中心都市を兼務した。
唐代の 621年、隋代の下邳郡が泗州へ改称され、宿豫県城がそのまま州都を踏襲する。
また同年、夏丘県の一部が分離され、虹県が新設される。623年には、夏丘県が廃止され、 虹県へ併合される。以後、夏丘県の名称は歴史から姿を消す(上地図)。
虹県は 634~809年まで泗州に、809年以降は宿州の管轄下に属した。
735年、宿豫県城(現在の 宿遷市宿城区鄭楼鎮古城山の南側の山麓)が黄河の氾濫により大損害を受けると、 泗州の州役所が 臨淮県城(今の 宿遷市泗洪県臨淮鎮)へ移転される。洪澤湖の南側対岸で、 今の淮安市盱眙県に位置した。上地図。
同時に宿豫県の県役所は 旧下相城跡(東晋時代の 405年に放棄された古城。現在の 宿遷市宿城区の南西にある古城街道一帯。旧黄河の河道沿い)へ転出されることとなる。上地図。
762年、時の 11代目皇帝・李豫(代宗)と漢字がダブったことから、宿豫県は宿遷県へ改称される。この地名が、今日まで継承されることとなった。
宋代、元代、明代、清代には、各州の改編などが度々実施されるも、 県レベル、および泗州下の行政区はそのまま踏襲された。
北宋時代の 1092年、虹県下の霊璧鎮が霊璧県へ昇格される(上地図)。
1126年に金軍の侵攻により北宋が滅亡すると、趙構(高宗)により 南宋が建国され、そのまま両者の戦争は続行されることとなる。下地図。
1127年には、虹県城も金軍に占領されると(上地図)、当地は長期間に渡る戦争の最前線に位置したため、 住民らも逃げ出し、虹県城は 60年間も廃墟となってしまったという。
1276年に南宋を滅ぼしたモンゴル軍により、同年早々、虹県が復活設置され、 江淮行省河南江北道下の宿州の管轄区に組み込まれた。
明代に 凰陽府(1371年の一時期、中立府へ改称)が新設されると、泗州直隷州(州都は 盱眙県城。今の 淮安市盱眙県)はここに帰属された(下地図)。
しかし、元末から明初にかけての内戦の影響で、一帯の住民人口が激減していたため、 1382年、広東省の番禺地方などから 24,000名余りの人々が泗州への移住させられる。
1450年、虹県知事の王磐が土壁を補修し、1488年には、虹県知事の樊江が虹県城の土壁を石積み城壁へ 改修し、また城門と楼閣も整備される。明朝末期に社会不安が激増した 1595年、虹県城はさらなる強化工事が 施されることとなった。
清代の 1639年に虹県城内で大火災が発生し、城内の半分以上が全焼する被害を被る。 さらに、1668年6月16日には、虹県地震が発生し、城壁が数十メートルにわたり倒壊したという。
一方で、泗州城(盱眙県城。今の 淮安市盱眙県)も度々、自然災害に見舞われ、 1680年には完全に洪澤湖に水没してしまうという事態に直面する。このため、州・県役所が一時的に 北の虹県城へ移転される(災害復興後に、盱眙県城へ再転入)。
最終的に 1777年、泗州の州役所は再び、盱眙県城から虹県城へ移転され、以後、清末まで続いた。 このとき、虹県役所は廃止され、泗州の州役所が地元の県行政も司ることとなった。上地図。
また、清朝の最盛期を体現した 乾隆帝(在位:1735~1796年)は、6度に渡る江南地方への巡遊の折、 5回も 宿遷県城(泗州の東隣の淮安府に帰属)に投宿したとされる。
域内には、古くから 京杭大運河(隋代の 604年着工、610年完成)が貫通し(上地図)、 北には倚駱馬湖、南には洪澤湖があったことから、そのロケーションと美しい風景は 皇帝のお気に入りであったという。
中華民国に入った 1912年に泗州直隷州は廃止され、 泗州の旧管轄域は安徽省と江蘇省に分かれて管轄されることとなった。
また、運河より東側は宿豫県に、運河の西側は泗宿県に、北側は宿北県に帰属された。
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