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松原市
訪問日:20--年-月-旬 『大陸西遊記』~
吉林省 松原市 ~ 人口 230万人、 一人当たり GDP 73,000 元
➠➠➠ 松原市内の 城跡リスト ➠➠➠
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塔虎城跡(長春州城、混同江城、撒叉河衛、撒義河衛。前郭爾羅斯蒙古族自治県八郎鎮)
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寧江州城(混同県城。1114年10月に挙兵した完顔アグダが最初に攻略した、遼側の城塞)
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伯都訥庁城(新城府城、伯都訥副都統、伯都訥県城)
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伯都古城(伯都訥駅、ベドゥネ駅、ボドナ駅)
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春捺鉢遺跡群(遼王朝後期、 皇帝一行の長春州城近郊の野営遺跡。松原市乾安県)
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得勝陀(伊家店郷の大金碑国家湿地公園内。金朝 5代目皇帝により建立された記念石碑)
【 松原市の 歴史 】
紀元前 22世紀ごろ、中国東北部には肅慎族が跋扈していた。
その後、南方の中原文化に接した部族らが台頭し、濊(わい)族と呼ばれる新集団を形成するようになる。引き続き、北方には肅慎族の伝統的な文化圏が残り続けていた。
さらに時は下り、濊族の一部が、松花江上流の 弱水(奄利大水、今の拉林河)を渡河し、南下してくると、中原より伝播した農業文明を習得し、「扶余族」と通称されるようになる。中原文化を取り入れ、先進的な農業と牧畜産業を基礎に、東北地方で最も豊かな民族となっていく。そのまま東北地方初の 農業国家「扶余国(王都は
東団山文化遺跡(今の 吉林省吉林市豊満区にある東団山
)に開設」を樹立するのだった。その勢力圏は主に松花江流域で、現在の
黒竜江省大慶市
肇源県あたりを北限としていた。下地図。
紀元前 108年の前漢朝 7代目皇帝・武帝による東征以降、扶余国もまた前漢朝に帰順し、その冊封体制に組み込まれることとなった。下地図。
こうして前後漢時代を通じ、冊封関係を維持していた扶余国であったが、中原王朝が弱体化すると、度々、南下しては玄菟郡などへ侵入し、略奪や反乱を繰り返したという。
後漢朝も末期となると、朝廷の統制力は喪失され、中原各地で群雄が割拠する戦乱時代に突入する。このタイミングで、遼東郡太守を務めていた 公孫度(150~204年)が、玄菟郡や遼東郡など 5郡を含む、遼東半島~朝鮮半島北部一帯を支配すると、北に国境を隣接した高句麗や 鮮卑族、扶余国などの東夷諸国も、こぞって公孫氏に服属することとなる。下地図。
しかし、その中でも突出した勢力を持っていた高句麗と鮮卑族は、度々、他の東夷諸国や公孫氏とも軍事的摩擦を引き起こしており、中原で繰り広げられていた群雄割拠とはまた異なる次元の、民族間戦国時代を現出させていたようである。
さらに外交上の選択肢を広げるべく、220年に後漢朝が滅び、曹魏が建国されると、夫余国はこの魏王朝とも朝貢関係を結ぶこととなる。
魏王朝との対立が決定的となった公孫氏に対し、魏の 司馬懿(179~251年)が自ら大軍を率いて公孫氏を攻め、そのまま滅亡に追い込むと(238年)、今度は魏王朝と直接、国境を接することとなった高句麗が、魏との関係を悪化させていく。
244年、魏の幽州刺史だった 毋丘倹(?~255年)が大軍で高句麗討伐を行うと、朝貢関係にあった扶余国も魏軍につき、兵士や兵糧を提供する。この戦いで、高句麗は(二代目)王都・国内城(今の
吉林省通化市
集安市の中心部にある、高句麗遺跡公園)を奪われ、朝鮮半島の北端にまで追放されてしまうのだった。
こうして中国東北部でも圧倒的な支配力を見せつけた魏王朝であったが、司馬懿の 孫・司馬炎(236~290年)により政権を簒奪され、代わりに西晋王朝が建国されると(265年)、北方の鮮卑族や扶余国は、引き続き、西晋王朝に帰順することとなった。
280年に呉を下し、中原の統一を成就させた西晋王朝であったが、皇族間の対立、全国各地の豪族残党らの挙兵、周辺民族の参戦なども重なり、中原は再び、戦乱の渦に巻き込まれる。
こうして西晋朝が中国東北部の諸民族との冊封体制を維持できなくなると、鮮卑族や高句麗が勢力を増し、ちょうど両者の中間に位置した扶余国は東西からの圧迫を受け(上地図)、ますます中原王朝に頼るようになるも援助は期待できず、ついに 346年、鮮卑族の 首長・慕容廆(269~333年)と、慕容廆(297~348年)父子により建国された 前燕朝(337~370年)に降伏し、その属国としてようやっと命脈を保つ有り様となる。
しかし 410年、東隣でますます強勢となっていた高句麗王朝の 19代目国王・広開土王(好太王。374~412年)による領土侵攻を受け、ついに扶余国も滅亡に追い込まれるのだった。このとき高句麗の広開土王は、後燕朝(384~407年。夫余族の 宗主国・前燕朝の後継王朝)や、西隣の契丹族にも打撃を与え、遼東半島一帯の併合に成功する。下地図。
その後、西方の契丹族、北の靺鞨族らの勢力に押され、現在の
長春市
あたりまで勢力圏を後退させた高句麗であったが、中原の隋王朝や唐王朝と互角に渡り合い、中国東北部最強国として君臨し続けることとなる。
最終的に、その高句麗も唐王朝と新羅の連合軍により滅亡に追い込まれると(668年)、中国東北部で渤海国が建国されるも(698年)、現在の松原市エリアは、引き続き、西方の契丹族の勢力圏下に置かれた。
その契丹族が台頭し、渤海国を滅ぼすと(926年)、遼王朝を建国して、中国東北部からモンゴル高原に至る広大な領土を支配する。その治世下、現在の松原市から
長春市
にかけての盆地エリアの経済開発が進み、
黄龍府城(今の 吉林省長春市農安県)
、長春州城(今の
吉林省白城市
洮北区徳順蒙古族郷の城四家子城跡)、寧江州城(混同県城。今の 松原市扶余市石頭城子村)などの中核都市がいくつも誕生することとなった。下地図。
特に、1022~1039年に建造された 長春州城(今の
吉林省白城市
洮北区徳順蒙古族郷に残る 城四家子城跡)は、遼朝皇帝の別荘地として、城内には宮殿までもが建造されていた(行宮。主に春季に滞在したことから、「春州」と称された)。上地図。
その宮殿には、聖宗(6代目皇帝。在位 982~1031年)、興宗(第 7代皇帝。在位 1031~1055年)、道宗(8代目皇帝。在位 1055~1101年)、天祚帝(9代目皇帝。在位 1101~1125年)の 4皇帝が毎年、足を運んでおり、まさに遼帝国後期における、政治、経済、軍事、文化の中心都市の一角を担っていたわけである。
続く 金王朝(1115~1234年)の治世下でも、長春州はそのまま継承されるも、 1150年に長春県へと降格される。以降、長春県は、肇州(上地図。始興県城。今の 松原市前郭爾羅斯蒙古族自治県八郎鎮にある塔虎城跡。城壁の全長は 5,181 mにも至る巨大城郭都市で、現在、中央政府指定の史跡となっている)に統括される。
1198年に泰州が新設されると、その州役所が 長春県城(上地図。城四家子城跡)内に開設され、再び、州都を兼務した。直後に、長春県が楽康県へ改称される。上地図。
上地図は、明代の松原市周辺地図。
旧長春州城(今の
吉林省白城市
洮北区徳順蒙古族郷に残る 城四家子城跡)には台州所城や塔山前衛が、旧肇州城には 撒叉河衛(撒義河衛)が開設されていたことが分かる。いずれも地元部族の支配のために 1408年に設置されたものだったが、土木堡の変を経て(1449年)、モンゴル勢力が台頭し、明王朝の支配力が低下していくと、順次、廃止されていくこととなった。
その後、中国東北地方の南部一帯を統一し、中原へ進出したヌルハチ率いる後金朝は(1616年)、中国全土の併合を進める中で「清王朝」へ改称するとともに(1636年)、モンゴル族の勢力圏下にあった東北地方の北部一帯、手始めに 松花江(嫩江)のさらに上流にある、現在の
チチハル市
方面へ進出し、領土拡張を図るようになる。
1674年、
吉林水師営(松花江沿いの水軍拠点)
による移民促進と屯田政策が着手されたことに加え、 1682年、松花江沿いに敷設された街道の 駅伝ネットワーク拠点「伯都訥駅(ベドゥネ駅、ボドナ駅)」が設置されると、寧古塔将軍の管轄区から西側、特にチチハル城からモンゴル方面へ至る、水陸交通の要衝に成長していく。この伯都訥駅が開設された場所が、現在の松原市寧江区伯都郷で、今も古城遺跡が残されている(下写真)。
1684年、東北地方の北部一帯に割拠する地場部族対策、および南下してくるロシア帝国に対抗すべく、清朝は
チチハル
に火砲部隊の駐屯基地を設置し、前線拠点に定める(1691年には木造の城塞が築城される)。以降、チチハルの駐屯基地には、常時、兵士 300名が配置された。
同時に、北方統治&防衛拠点として 7ヵ所の軍事拠点が整備されると、そのうちの一角を成したのが、1693年、駅伝拠点「伯都訥駅」の南 10 kmの地点に建造された、 レンガ積みの 城塞「伯都訥城(伯都訥新城。単に『新城』と通称される)」であった(今の 松原市寧江区新城郷)。下地図。
この城内には八旗軍の駐留部隊と共に、伯都訥(ベドゥネ)副都統の役所も併設されることとなった(吉林将軍に帰属)。下地図。
その役目は、地方行政全般を網羅するもので、軍事から司法、徴税までを担当した。この時、副都統衙門(役所)には、委署主事が 1名、秘書官 4名、倉庫管理官 1名、倉庫管理秘書官 1名が配属されていた。
1811年、伯都訥庁(ベドゥネ庁)が新設され、伯都訥新城(今の 松原市寧江区新城郷)内に開設される。同時に、分防巡検として役人 1名が、
孤榆樹屯(今の 吉林省長春市榆樹市)
にも配置されることとなった(伯都訥庁に帰属)。
1882年、伯都訥庁の役所が、孤榆樹屯へ移転される。
1906年2月15日、伯都訥庁が伯都訥県へ昇格されると、この県役所と伯都訥副都統の行政庁が、かつての伯都訥新城へ再移転されることとなる(以降、新城府と称される)。同時に、孤榆樹屯巡検が榆樹県へ昇格されると、以後、新城府は伯都訥県と榆樹県を統轄することとなる。
この清末における行政区の急改編は、伸長してくるロシアと日本の勢力に対抗するために、満州地方の統治と防衛体制の強化を図る目的と、また急増する新移民らの住民管理を目的とするものであった。
翌 1907年4月、吉林将軍が廃止され、吉林省が新設されると、これに属する(下地図)。 1909年6月2日には、伯都訥副都統が廃止される。
中華民国成立直後の 1913年3月、新城府(今の 松原市寧江区新城郷)が新城県へ改編される(吉林省西北路道に帰属)。しかし翌 1914年2月、山東省にも「新城県(今の
聊城市
東阿県新城村)」という同名の地名があったことから、扶余県へ変更される。
共産党中国時代の 1987年11月19日に扶余市が成立すると、1992年6月6日に松原市へ改編後、吉林省側に移籍されて、今日に至るわけである。
清代初期の 1693年に、レンガ積み城壁で築城された伯都訥新城は、現在の松原市 中心部(寧江区新城郷)に立地していた。
1811年に城内に新設されていた伯都訥庁が、一時的に
孤榆樹屯(今の 吉林省長春市榆樹市)
へ移転されるも、1906年に新城府へ昇格される際、再度、当地(伯都訥県城を兼ねる)へ再移転されることとなる。以降、伯都訥県と
榆樹県(今の 長春市榆樹市)
の 2県を統括する「府城」として君臨したわけである(1913年に中華民国の建国により廃止)。
まさにその 伯都訥新城(新城府城)跡であるが、今日では完全に城門も城壁も撤去されており、かつての面影も、わずかな路地名に残されるのみとなっていた。関東第一村、古城街、古渡口広場、東鎮、新和胡同、建栄胡同、建安胡同、前進胡同、文化胡同、文雅胡同、文興胡同(「胡同」とは、古城時代の路地を示す)など。
下地図は、1933年の満州国時代のもの。
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