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十堰市
訪問日:20--年-月-旬 『大陸西遊記』~
湖北省 十堰市 ~ 人口 350万人、 一人当たり GDP 31,000 元
➠➠➠ 十堰市内の 城跡リスト ➠➠➠
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鄖県城(鄖陽府城、鄖陽撫治)
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房県城(三国時代に孟達が守備した 房陵県城、房陵郡城、房州城)
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竹山県城(三国時代に劉封が守備した 上庸県城)
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竹溪県城(武陵県城)
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保康県城
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鄖西県城
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長利県城
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武当県城
【 十堰市の 歴史 】
1980年代末期、十堰市茅箭区青曲鎮弥陀寺村で 100万年前の古代原人の頭蓋骨の化石が発見され、鄖陽原人と名付けられるに至る。
夏王朝の時代、十堰市一帯は梁州と豫州に分かれて統括された。すなわち、今の 鄖県、鄖西県、房県、竹山県、竹溪県 などは梁州に、丹江口は豫州に帰属された。
西周王朝の時代、十堰市エリアは古代方国の領土下に組み込まれ、後に 庸国、彭国、微国、麇国、鍚国、絞国、均国 などの封国と古代方国の残党勢力が割拠する地域となる。
庸国の王都は今の 十堰市竹山県上庸鎮と 北壩村の一帯、彭国の王都は今の房県、そして微国の王都は今の 十堰市張湾区黄龍鎮に開設されていた。 また、鍚国と麇国は鄖県五峰郷の一帯に勢力圏を広げ、絞国の王都は今の 丹江口習家店に、均国は丹江の下流部の丹江口と河南の浙川の合流地点に拠点を構えた。
春秋時代の紀元前 611年ごろ、楚国が北へ勢力拡大を図り、庸国と麇国を滅ぼす。このとき、旧庸国の地に漢中郡が新設され、その下に上庸県など、6県(他に 房陵県、鍚県、長利県、武当県、武陵県)が配置される。旧庸国の王都跡が上庸県城として利用された。以降、今の十堰市エリアは楚国の版図下に組み込まれ、この地域が楚国と秦国との国境最前線地帯となり、度々、戦火に巻き込まれることとなる。下地図。
しかし紀元前 312年、 楚の懐王が秦国へ出兵し大敗を喫した(藍田の戦い)ことにより、 秦国の 大将軍・張儀がさらに楚軍を追撃して、上庸県以下の 6県を占領してしまう。 これ以後、十堰市エリアは秦国の領土下に組み込まれることとなった。下地図。
紀元前 304年、秦の昭王が楚との同盟協定により、上庸県以下の 6県を楚国に返還する。 しかし、楚との関係は日増しに悪化し、紀元前 301年に秦の昭襄王は楚領へ出兵する。 これに対し、楚の懐王は自ら秦国の 王都・咸陽へ入朝し、弁明を図るも、秦の昭襄王は懐王を信じず、 そのまま秦国内に拘留することとなった。 翌紀元前 296年に懐王は趙国へ逃亡を図るも、再び捕らえられ、そのまま秦国内で死去した。
この事件をもって、最終的に十堰市一帯は秦国の帰属下に戻された。
紀元前 221年、秦の始皇帝により中原が統一されると、全国に郡県制が導入される。このとき、現在の十堰市域は漢中郡と南陽郡に分かれて統括された。十堰市エリア内では、房陵県(今の 房県)、鍚県(今の 十堰市鄖陽区南北峰村と五峰村)、武陵県(今の 竹溪県)、上庸県(今の 十堰市竹山県上庸鎮)、長利県(今の 十堰市鄖西県観音村。当時から鄖関を有する要衝であった)の 5県が漢中郡に帰属され、武当県(今の 十堰市丹江口市均県鎮)のみ 南陽郡の管轄下に配された。
西漢朝 7代目皇帝・武帝の治世下、全国が十三刺史部州に分割される。このとき、十堰市一帯は益州の漢中郡と、荊州の南陽郡に所属される。諸県は秦朝時代の行政区がそのまま踏襲された。
後漢時代には、長利県が廃止され鍚県に編入される。また、武陵県も廃止され、上庸県に吸収合併される。後漢末期、十堰市一帯には 上庸郡(上庸県と武陵県)と 新城郡(房陵県)、西城郡(鍚県)、南陽郡(武当県)に細分化され統括されていた。上地図。
三国時代期、十堰市エリアは魏の支配下に置かれた。引き続き、荊州に属し、上庸郡と新城郡の 2郡と、その下に 上庸県、北巫県、武陵県、建始県、房陵県、昌魏県、鍚県、武当県の 8県が設置されていた。
関羽が呉と魏から挟撃された 219年、この上庸県城に劉封が、房陵県城に孟達が詰めていたわけであるが、関羽の死後、孟達はすぐに魏に投降し、劉封は上庸郡と新城郡を魏軍に奪われて敗走し、成都で処刑されるのであった。下地図。
西晋、東晋時代には、上庸郡と新城郡の 2郡と、上庸県、安富県、北巫県、武陵県、微陽県、鍚県、鄖郷県、長利県、房陵県、昌魏県、武当県の 11県体制となる。
南北朝時代期、北周朝の支配時代以外は、南朝の統治下に置かれた。
その南北朝時代を統一した隋朝の治世下、十堰市エリアは西城郡、房陵郡、上洛郡と淅陽郡の 4郡に分かれて帰属された。新設された房陵郡下には、豊利県、光遷県、永清県、竹山県、上庸県、上津県、安福県、鄖郷県、武当県(一時的に均州に昇格されるも、すぐに県レベルに降格)が配された。
唐代には、十堰市一帯は山南道下の 房州、均州、商州に分かれて統括された。県城の数は変更されず、隋代のそれが踏襲される。下地図。
五代十国時代期にも、十堰市エリアは、基本的に唐代の行政区がそのまま踏襲される。房州と均州で 房陵県、竹山県、上庸県、永清県、鄖郷県、武当県の諸県が、上津県のみ商州の管轄下に置かれた。
宋代には、京西路南路と陕西路永興行軍路に分かれて帰属された。
元代、十堰市一帯には 均州、房州と 武当県、鄖県(今に続く鄖県の名称はこのときスタート)、房陵県、竹山県、上津県が置かれていた。
明代初期、十堰市エリアは 均州、武当県、鄖県、房県、竹山県、上津県が設置されており、湖広承宣布政使司襄陽府の管轄下に置かれた。すぐに武当県が廃止され、均州へ編入される。
1476年には、均州が襄陽府の直轄に組み込まれ、均州は配下の県城を持たない州となる。
同年、鄖陽府が 鄖県、房県、竹山県、鄖西県、上津県、竹溪県を監督することとされ、1498年には房県下の脩文郷、宜陽郷などが分離され、新設された保康県が鄖陽府下に追加された。鄖陽府は 湖広下荊南道(道役所は当初、襄陽城内に、後に鄖陽城へ移転された)に帰属される。上地図。
また、鄖陽府と襄陽府、および諸県はまとめて鄖陽撫役所の管轄とされ、初代の巡撫左副都御史に就いた原傑が鎮城を新設し、総鎮役所が鄖県城内に開設され、同時に 湖広行都指揮使司(下荊南道に所属)役所も併設された。
撫役所は河南南陽府の 各州県、湖広安陸府(後に承天府となる。今の鐘祥市)、荊門州、沔陽州、鄖陽府、荊州府下の各州県、陕西省漢中府下の各州県、および陕西省西安府下の商州の各県、四川省下の夔州府の各県を統括することとされる。その管轄区域は 八府、九道、九州、六十四県に及ぶ広大な領域であった。
下は、明末期に農民反乱軍を率いた李自成の 撤退ルート(赤線)。北京陥落後、西安へ立ち寄り、襄陽府城へと南下する中で、鄖陽府城も経由したことが分かる。
明代に開設されていた鄖陽撫の役所は清代の 1680年まで継承されることとなる。鄖陽撫の長官職は明朝、清朝の朝廷内でも要職であり、この 205年もの間に 120名の高級官僚が派遣されたという。
清代には、明代の湖広省が湖北省と湖南省に分割される。十堰市一帯は引き続き、鄖陽府の管轄とされ、湖北省承宣布政使司に帰属した。
鄖陽府下には 鄖県、房県、竹山県、竹溪県、保康県、鄖西県の 6県が配された。
あわせて、明代まで設置されていた上津県が廃止され、その行政区が鄖西県に編入される。また、均州はそのまま襄陽府の管轄下に置かれた。
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