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石家荘市
訪問日:20--年-月-旬 『大陸西遊記』~
河北省 石家荘市 ~ 人口 1,055万人、 一人当たり GDP 48,000 元
➠➠➠ 石家荘市の 城跡リスト ➠➠➠
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真定県城(東垣県城、三国時代の 猛将・趙雲の故郷、常山郡城、【2代目】恒州城、真定府城、正定府城、正定県城)
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石邑県城(石邑城、恒山郡城、常山郡城、【2代目】井陘県城、【初代】恒州城、常山郡城、恒州城、鎮州城)
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綿曼県城
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【初代】井陘県城(井州城)
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鹿泉県城(获鹿県城、鎮寧州城、西寧州城)
【 石家荘市の 歴史 】
春秋時代初期には虞国の、後期には晋国の版図下に組み込まれた。
戦国時代初期には、中山国に属する。趙国が中山国を滅ぼすと、趙国の領土とされた。このころ、石家荘市一帯は石邑と通称されていた。
秦代には鉅鹿郡に帰属される。
前漢時代に石邑県が新設される。県城は今の 石家庄市鹿泉区获鹿鎮の南 15 kmの地点に築城されており、恒山郡(紀元前 187~前 180年の間、恒山国へ昇格される)の郡都に指定される。
また、秦代に設置されていた 東垣県(今の 石家庄市正定県)が、紀元前 196年に真定県へ改称されている(「真正安定(絶対安寧の意)」から命名)。後に恒山郡の郡役所が転入される。下地図。
前後漢時代を通じ、石家庄市の西部一帯の太行山地区は、一大兵器産地として繁栄する。製鉄業を主軸に、武具や各種鉄器などの生産地として名を馳せ、これに絡み、付近を流れる河川も冶河と命名されるほどであった(現在も使用中)。
紀元前 179年、恒山郡が常山郡へ改名される(5代目皇帝・文帝【劉恒】の名にダブったため)。真定県城(今の 石家庄市正定県中心部)がそのまま郡都とされた。上地図。
紀元前 145年には常山郡が常山国へ改編され、再び 封国(劉舜が国王)が復活する(紀元前 114年、劉舜の死とともに廃止)。元氏県城(今の 石家庄市元氏県殷村鎮故城村)が王都に選定されていた。
紀元前 113年、常山郡が分割され、今の 石家庄市鹿泉区获鹿県の北側に綿曼県が新設される(真定国【王都は 真定県城内に開設】の版図下に組み込まれる)。
紀元前 68年にも、获鹿県の北東部分に楽陽侯国が新設され(恒山郡に帰属)、4代の国王が封じられた。紀元前 21年、再び楽陽侯国が復活設置されるも、前漢朝の滅亡とともに、廃止される。
後漢時代期には、一時期、石邑県が廃止されるも、後に再設置される(常山郡に所属)。後漢時代の初期には封国として設置された綿曼侯国下、続いて真定国下、そして中山国下の版図下に組み込まれるも、いずれの封国も短命であった。この間、常に常山郡石邑県として存続していくこととなる。
三国時代から西晋時代、南北朝時代の北魏朝の治世時代にかけては、石邑県は引き続き、常山郡の管轄下にあった。
なお、後に蜀の五虎将軍の一角を成す趙雲は、石邑県のすぐ上の 常山郡真定県(現在の 石家庄市正定県中心部)の出身である。この当時も、真定県城が常山郡の郡都であった。上地図。
時は下って、南北朝時代下の北斉朝の治世時代、石邑県が井陘県へ改称される。もともと存在した井陘県を吸収合併する形での変更であった(引き続き、常山郡に所属)。
また、北周朝の 治世下(578年)には、定州から 恒州(州都は真定県城)が 分離・新設される。
隋代初期の 583年、井陘県(石邑県)の県役所が、今の 石家庄市鹿泉区获鹿県の北東にある万夏村へ移転される。また同時に、常山郡が廃止され、石邑県は恒州の所属とされた。上地図。
586年、井陘県が石邑県へ再び戻される。また同時に、かつての井陘県が復活設置される。
603年、石邑県が分割され、今の 石家庄市鹿泉区获鹿県の中心部に 鹿泉県(県城の南側十里に鹿泉水という河があり、ここから命名された)が新設される。同時に、井陘県城内に井州役所が併設され、鹿泉県を統括することとされた。
隋末期の混乱期にあった 618年、窦建徳が農民反乱を主導し、恒州一帯を占領する(上地図)。 このとき、恒州役所が真定県城から石邑県城へ移転されている。
しかし、621年に唐軍を率いた李世民により農民反乱が平定されると、恒州役所は再び真定県城へ再移転される(石邑県は引き続き、ここに所属)。 一方、井州は引き続き、井陘県と鹿泉県を管轄した。
643年、井州が廃止され、鹿泉県は恒州の管轄区に組み込まれる。
742年、恒州が 常山郡(引き続き、井陘県城が郡都)へ改編され、石邑県(今の 石家庄市橋西区振頭の一帯)と鹿泉県の 2県を統括した。
756年には、常山郡が平山郡へ(翌 757年には恒州へ、最終的に 820年に鎮州へ)、鹿泉県が获鹿県へ改名される。获鹿県と石邑県はそのまま平山郡に帰属された。
五代十国時代、石邑県と获鹿県の 2県は、後梁朝下の鎮州に属した。上地図。
その後、度々、為政者の変遷を見ることとなる。後唐時代には 真定府(後に鎮州に戻される)、後晋時代には恒州へ、北漢時代には鎮州へと行政区が改名されていくも、その管轄下には常に石邑県と获鹿県の 2県が配された。
北宋時代の初期にも、石邑県(973年に获鹿県へ吸収合併される)と 获鹿県は鎮州に属された。 1048年、鎮州は 真定府(真定県城が府都)へ改編されるも、引き続き、获鹿県を統括した。
金代初期にも、真定府は获鹿県を管轄することとされるも、1219年、获鹿県が鎮寧州へ昇格される。
元代に入り、鎮寧州が西寧州へ改称され、真定路に帰属された。最終的に 1235年、西寧州が获鹿県へ降格される。
明代も引き続き、获鹿県は真定府の管轄下に置かれた。
清代も明代の行政区が踏襲される。 1723年には、真定県が正定県へ、真定府が正定府へ改名されている(そのまま获鹿県を統括)。
20世紀初頭、現在の 石家庄市中心部は未だ获鹿県下の小さな集落に過ぎなかった。
当時すでに、获鹿県城は華北地方の水運拠点の一角を成し、大いに繁栄していたが、清末に鉄道が開通することで、大きく産業と物流構造が変化し、水揚げ港も鉄道駅の傍である東側へ移転されることとなる。こうして、現在の石家庄市中心部一帯が获鹿県城の地位に取って変わり、大発展を遂げることとなった。
1902年に、フランスとベルギーが共同開発で京漢鉄道を敷設した際、市内に一つの駅が開設される。付近の振頭鎮から命名され、振頭駅と命名された。
正太鉄道の線路工事に際し、滹沱河の上に陸橋を敷設する手間を避けるべく、1907年、現在の石家庄市街区にて京漢鉄道と連結される。こうして、正太鉄道の終着駅が正定県城から石家庄へ変更されるに至り、石家庄は両鉄道の交錯地点として、急速に市街地開発が進むこととなった。
中華民国が建国された翌 1913年、范陽道(翌 1914年には保定道へ改称)が新設され、获鹿県を統括した。
1928年には全国で道制が廃止され、获鹿県は河北省の直轄下に組み込まれる。
1937年10月10日、日本軍により占領され、河北省石門市へ改称されている。
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