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瀋陽市
訪問日:20--年-月-旬 『大陸西遊記』~
遼寧省 瀋陽市 ~ 人口 823万人、 一人当たり GDP 60,000 元
➠➠➠ 瀋陽市内の 城跡リスト ➠➠➠
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瀋陽城(楽郊、瀋州城、瀋陽路城、瀋陽中衛城、盛京【副王都】、奉天府城、承徳県城)
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候城(中部都慰、候城県城、玄菟郡城)
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望平県城
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新民庁(清代の行政庁)
【 瀋陽市の 歴史 】
瀋陽市一帯では、11万年前の旧石器時代より、古代人類の生息が確認されているという。 7200年前には農耕漁業を営む 定住型集落(新楽遺跡)が形成され、太陽烏図騰文化(崇拝の対象だった太陽と鳥の化身 ”鳳凰” ”火の鳥” を土器などに描いた)が花開いたとされる。
時は下って春秋戦国時代下の紀元前 300年、燕国の 将軍・秦開(生没年不詳)が軍勢を率いて東胡族を撃破し、 東胡族のテリトリーを北へ千里後退させる。秦開はそのまま遼水を渡り、箕子朝鮮へも攻め込む(下地図)。 満潘汗(今の 北朝鮮平安北道博川郡)に達し、そこを東の境界と定めると(燕・古朝鮮戦争)、このラインが、
遼寧省
と北朝鮮の国境として今も継承されているわけである。
秦開は、新たに占領した遼東半島一帯に、上谷郡、漁陽郡、右北平郡、遼西郡、遼東郡の 5郡を設置し、 また国境ライン上に「燕の長城」を建造していくこととなる。と同時に、現在の瀋陽市渾南区古城子村あたりに、 軍事拠点「候城」を築城した記録が残されている。 「候」の原義が ”遠方を偵察する、見渡す” の意味であることから、占領地を監視する出先機関であったと考えられる(行政区としては、
遼東郡下の 襄平県【今の遼陽市】
に統括された)。
彼のその後は一切不明であるが、孫の 秦舞陽(秦武陽。紀元前 240年~?)は、荊軻と共に秦王政の暗殺役として、燕から
秦王都・咸陽
まで派遣されている(紀元前 227年)。 結局、暗殺計画は失敗し、荊軻はその場で刺殺されるも、秦舞陽の消息は一切不明という。
最終的に紀元前 221年、秦王朝が全国を統一すると、紀元前 225年に遼東郡下で 望平県(今の 瀋陽市新民市前当堡鎮大古城子村に開設。三国時代末期に廃城となる)が新設され、この行政区に組み込まれる。下地図。
続く前後漢王朝時代も、引き続き、襄平県城が遼東郡の郡都を兼務しつつ、襄平県、 居就県、新昌県、無慮県、望平県、房県、候城県、遼隊県などの 18県を統括した。 その広大な領域を支配した太守を補佐すべく、各地に 都尉(軍事を司る役人) が配置されており、その一拠点として「候城」が利用されていたという(中部都尉)。行政上は、 望平県と候城県に分かれて統括されていた(上地図)。
三国時代が始まる直前の後漢末期、 遼東郡襄平県の役人出身だった 公孫度(150~204年)が遼東侯を名乗ってこの地に割拠すると、 平州を新設し、昌黎郡、玄菟郡、遼西郡、楽浪郡、帯方郡の統括上位機関に定める(下地図)。 このうち、
玄菟郡の 郡役所(前漢朝 7代目皇帝・武帝の治世下の紀元前 107年に開設。当初、郡都は高句麗県だった)
が、候城県内へ移設されることとなり、郡都も兼ねる存在となる(以降、玄菟城とも称された)。
その 孫・公孫康(?~238年)は魏と呉を天秤にかけて二枚舌外交を繰り返したことから、大将軍・司馬懿による遠征を受け、一族郎党が処刑される(下地図)。以降、魏の支配地に組み込まれる。その戦後処理に際し、司馬懿によって大虐殺が行われた遼東半島では人口が激減し(住民の多くは、後漢末以降、中原から避難してきた移民らであった)、郡県制の再編が進められ、候城県と玄菟郡も廃止されることとなる。
その後、魏朝は西晋朝へ取って代われ、280年に三国統一が成るも、西晋朝の皇族どうしによる内戦が続き、中原王朝の支配力が弱体化すると、北方系民族の五胡が中原へ流入することとなり、内戦が内戦を呼ぶ五胡十六国時代がスタートする。遼東半島の支配体制も崩壊し、異民族らに占領されるも、
この混乱の最中に遼東半島東部で高句麗が勃興すると、 以降、200年間にわたり 朝鮮・遼東半島一帯を支配したのだった(現在の瀋陽市一帯は、旧・玄菟城が統括)
。
300年弱も続いた五胡十六国時代の動乱を収め、隋王朝が中原の再統一に成功すると(589年)、 2代目皇帝・煬帝により高句麗遠征が着手される。しかし、3度に渡る大遠征は失敗に終わり、 そのまま隋王朝が崩壊すると、続いて、その混乱を収拾した唐王朝が中国を再統一する(618年建国、626年全国統一)。
直後より、3度に及ぶ高句麗遠征が再開され、ついに 668年、高句麗も滅亡に追い込まれるのだった(下地図)。 以降、遼東半島も唐王朝の統治下に組み込まれると、安東都護府に統括される(当初、役所は旧王都だった平壌に開設されるも、 新羅の侵攻を受け、676年に遼東城に移転される)。
その後、東北地方では女真族、高句麗残党らにより渤海国が建国され、長らく唐王朝と朝貢関係が維持されるも、 内モンゴル高原より台頭してきた契丹族を率いた耶律阿保機により 926年、滅亡に追い込まれる。 ますます勢力を伸長させた契丹族は、衰退しつつあった唐朝の北部国境も次々と侵犯し、 また東征しては遼東半島一帯をも併合してしまうのだった。以降、檀州、順州、薊州 など華北地方から多くの漢民族が遼東半島へ移住させられ(921年~)、現在の瀋陽市 中心部(当時は「楽郊」と称されていた)に「瀋州」が新設されることとなる(付近を流れる「瀋水」から命名)。この城塞都市建設や農地開墾に、これらの移民らが大動員されたと考えられる。
その後、契丹族が遼王朝を建国し、中国東北部からモンゴル高原、チベットに至る大帝国を形成するも、
渤海国の残党だった女真族の完顔阿骨が挙兵し、遼軍を大破すると、金王朝を建国する(1115年)
。そのまま勢いに乗った女真族は東北地方を南進し、遼東半島をも占領する。この戦役で、金軍により瀋州城も陥落している(下地図)。
さらに中原入りした金王朝により、10年後に遼王朝も滅亡に追い込まれると(1125年、上地図)、中国華北へ遷都した金王朝は、華南地方の南宋朝との抗争を続けていくこととなる。その金王朝の治世下、荒廃していた瀋州城の再建工事が着手されるも、100年も経たずしてモンゴル軍が東北地方を蹂躙するようになり、多くの住民が虐殺され、都市のほとんどが消滅してしまうのだった。そして金王朝自体も、ついに 1234年、モンゴル軍により滅亡に追い込まれる。
元王朝の治世時代に入ると、1296年、荒廃していた瀋州城に大規模な改修工事が施され(引き続き、土塁城壁)、翌 1297年に「瀋陽路」へ改称される(遼陽行省に所属。下地図)。瀋水(今の渾河)の北側に位置したことから「瀋陽」と命名されており(「山の北側は陰、水の北側は陽」という漢族の風習に依拠)、以後 700年にわたって継承されていくこととなる。
その元王朝も 100年余り後に、明王朝により滅ぼされると(1368年)、明朝により瀋陽路は瀋陽中衛へと改編される(下地図)。同時に、脅威であり続けたモンゴル族への備えとして、前線基地となる遼東郡下の防衛力強化が図られ、その一環として、瀋陽中衛城の城壁がレンガ積みへと大改修されることとなった(1386年)。
モンゴル帝国時代に東北地方の北方へ追いやられていた 旧・女真族は、 明代を通じ、明朝廷に恭順したことから間接統治体制に組み込まれ、居留区を南へ南へと 拡大させていく。明代末期、その南端まで移住していた建州女真族の一部族長だった ヌルハチ(1559~1626年)が台頭し、建州女真族をはじめ(1587年)、海西女真族や野人女真族などを統一し、1616年、後金国を建国する(王都は、ヌルハチの 故郷・赫図阿拉に開設。今の
遼寧省撫順市
新賓満族自治県永陵鎮老城村)。上地図。
1618年、明領への侵攻を開始すると、翌 1619年に明朝の討伐軍を撃破し(サルフの戦い。下地図)、勢いに乗った後金軍は、 明朝の遼東地方の 軍事拠点・瀋陽(中衛城)と 行政拠点・
遼陽(遼東都司)
の攻略に成功する(1621年。下地図)。 そのまま王都を
遼陽(東京城へ改称)
へ遷都するも、1625年、さらに瀋陽へ再遷都し、早速、新王宮(今の瀋陽故宮)の建設に着手する。しかし翌 1626年、ヌルハチは
山海関
を自ら攻撃中に負傷し、その傷がもとで同年中に没することとなる(遺体は、瀋陽城の東郊外にある福陵に埋葬)。
続いて、2代目国王として ホンタイジ(1592~1643年。ヌルハチの 8男)が即位すると、翌 1627年、王都・瀋陽城の大規模拡張工事に着手し、これにより盛京八門が設けられることとなる(下絵図)。
1634年、瀋陽城は「天眷盛京」へ変更されると、以降、略して「盛京」と称された。
また同時進行でモンゴル遠征を繰り返しており、ついに 1636年、モンゴル族が後金朝に全面降伏すると、 モンゴル高原で神聖視されてきた白く飾られたラクダに搭載され、瑪哈噶喇(マハカラ)金仏、玉璽などが 王都・盛京へ献上されてくる(直後にホンタイジは 蓮花凈土實勝寺を建立し、これらの宝物を安置させることとした。この寺院は後に清皇室の家廟となったことから「皇寺」とも通称されるようになる。瀋陽市和平区皇寺路 206号にて現存)。
これを機に、ホンタイジは皇帝に即位し、国号を大清に改めるわけである。
1643年、ホンタイジは皇帝勅令により、瀋陽宮殿を中心とみなし、東、西、南、北 に四塔四寺を建立させる。この四塔四寺により人民を守護させ、「奉国安民、五福斯来」の願掛けを行ったとされる。
同年、ホンタイジが崩御すると、9男 フリン(順治帝。1638~1661年)が 3代目皇帝に即位する。まだ 6歳と幼少であったことから、ホンタイジの 実弟・ドルゴン(1612~1650年。太祖ヌルハチの 14男)が摂政となって補佐する体制が整えられる。そして翌 1644年、このドルゴン主導の下、王都が
北京
へ遷都することとなるわけである。以降、盛京は副王都に位置付けられる。
同じく 1644年より、清朝は移民奨励政策を採用し、中原の住民らを遼寧省一帯へ送り込み、土地開墾に従事させていく。以降、河北省、河南省、山東省、山西省から、多くの移民が流入し続け、遼東半島北部に形成された集落は、この 順治年代(1644~1661年)に誕生したものが大部分を占めることになる(特に、1651年制定の「遼東招民開墾条例」が有名)。
1657年、盛京城(沈陽)に奉天府が併設されると(「奉天承運」の願掛けから命名)、 奉天城とも通称されるようになる(下地図)。清代を通じ、全国レベルで見ても、府役所の開設は
北京の順天府
と、この盛京城内の奉天府しか存在せず、当時の行政レベルで最高位に位置する都市として君臨したのだった。
翌 1658年、清朝政府はさらなる移民奨励策を打ち出し、土地開墾の面積多寡に応じて、地方官吏の昇進や、額縁(匾額)の贈呈、家格を示す邸宅門の飾りつけ許可などが約束される。以降、さらに各地で屯田村が新設されるようになり、他の村や地方からの住民引き抜き騒動なども頻発していく。
1663年、さらに「遼東招民令」が発布され、遼東地方に移民百名を連れてきた者には、科挙試験を免除し、県知事と同じ役職、給与を支給する、という優遇策が導入される。翌 1664年、早速、盛京城内に承徳県役所が併設され、新県知事が任命されている。
こうした積極的な移民奨励策が功を奏し、増加した集落や住民らを統治すべく、1727年、吉林烏拉城に
永吉州(今の 吉林省吉林市の中心部)
や、
寧古塔(今の 黒竜江省牡丹江市寧安市)
下に 泰寧県、
伯都訥(今の 吉林省松原市寧江区)
下に長寧県が新設されていった(いずれも 奉天府が統括)。
その後、中国東北部はロシア帝国の侵犯を受け、1903年には東清鉄道 南満洲支線が完成し、奉天城下の大部分がロシア帝国の管理地に組み込まれる。これに危機感を抱いた日本との武力衝突に発展し(日露戦争)、この地で両軍最大の決戦が行われている(1905年2月、奉天会戦)。
自国領が大国間の戦場に巻き込まれるなど、完全に無力化した清朝は、ついに 1911年、辛亥革命を受けて崩壊し、翌年、中華民国が成立する。しかし、同時期に発生した東北三省での武力革命は失敗し、清朝廷から派遣されていた 軍人・趙爾巽(1844~1927年)がそのまま支配を継承する旧体制が残存されることとなった。その後、中央で権力を握った袁世凱に服属し、その 部下・段芝貴(1869~1925年)が東北三省の支配のため派遣されてくるも、外部出身者だったことから、地元勢力に依存せざるを得ない事態に陥る。この時、非合法武装組織(馬賊)を率いる地元有力者だった 張作霖(1875~1928年)が登用され、段芝貴政権下で重宝されるも、1916年に袁世凱が死去すると、そのまま段芝貴を追放し、張作霖自身が東北三省の支配権を掌握してしまうのだった。首府を沈陽城に定めたことから、以降、奉系軍閥と称されるようになる(上地図)。
この張作霖の支配下で奉天市制がスタートされるわけだが(1923年)、1928年6月、張作霖が日本軍により瀋陽駅近くで爆殺されると、長男の 張学良(1901~2001年)がその地位を継承することとなる。その治世下の 1929年4月2日、奉天市は瀋陽市へ再変更される。
しかし、1931年に満州事変を発生させた日本により満州国が建国されると、再び奉天市へと戻される(下地図)。最終的に 1945年の日本敗戦により満州国が崩壊すると、奉天市は再び瀋陽市へ変更され、今日に至るわけである。
日本軍の撤退直後より国共内戦が再開されると、力を増した共産党軍により、1948年11月2日に瀋陽市も占領される。
1953年、瀋陽市は中央政府の直轄都市に定められるも、翌 1954年に遼寧省の省都となり、今日までその地位が継承されている。
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