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邵陽市
訪問日:20--年-月-旬 『大陸西遊記』~
湖南省 邵陽市 ~ 人口 460万人、 一人当たり GDP 21,000 元
➠➠➠ 邵陽市内の 城跡リスト ➠➠➠
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邵陵県城(宝慶府城)
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武岡県城(都梁県城)
【 邵陽市の 歴史 】
市内各所で古代遺跡が発掘されており、新石器時代における人類の生息が確認されているという。
周朝の時代、荊州に帰属し、春秋戦国時代においては楚の領土下にあり、雄溪(今の巫水)の流域は楚国と百越の諸民族らが行き交う前線地帯となっていた。このころ、楚王族の白公善が現在の 邵陽市旧市街地に城郭を築城する。当時、白公城と呼称されたと史書に記述があるらしい。
秦国より紀元前 223年に楚が滅ぼされると、邵陽市一帯は長沙郡と黔中郡に分かれて帰属される。
前漢初期のころ、最初、長沙国零陵郡の下、昭陵県が新設される。昭陵県城は先の白公城を改修する形で設置された。
紀元前 155年、前漢朝 6代目皇帝・景帝(劉啓)により、その第六子・劉発が長沙国に封じられる(母親の身分が低かったため王位継承から早々に外される)。紀元前 142年、景帝によりさらに 武陵、零陵、桂陽郡も長沙国の所領と認められ、今の湖南省の大部分を版図下に置く。この人物の系譜が後に起こる後漢王朝の始祖となる。
紀元前 141年、景帝の第十子であり、劉発の弟にあたる劉徹が 7代目皇帝(武帝)として即位する。紀元前 124年、長沙国零陵郡下の昭陵県南部を分離する形で、夫夷侯国が新設される。兄の 劉発(長沙国王)の王子であった劉義を夫夷侯としてこの地に封じる。その王都が今に残る夫夷古城である。後漢王朝下の 53年に夫夷侯国が廃止されて夫夷県へと降格されるまで存続することとなる。
同じく紀元前 124年、長沙王の王子であった劉遂も都梁候に封じされ、都梁侯国の建国が許されている(その王都は現在の 湖南省邵陽市武岡に開設された)。
前漢王朝も末期となると家臣らの専制が横行し、幼い皇帝が次々に擁立されていく。わずか 9歳で皇帝となる平帝の 時代(紀元後 5年)、長沙国王子の劉賞が昭陽侯国王に封じられ、その王都が今の湖南省邵東県黄陂橋郷同意村に開設される。今日でも古城跡が保存されており、東西 250 m、南北 350 mの長方形で、土壁を持つ城郭都市であったという。現時点でも、城壁の四隅には楼閣の土台跡が残り、また幅 5~8 m、高さ 3~4 mの土塁が 100 mに渡って残されている。その他、瓦や 煉瓦、武器類などが発掘されているという。
下は前漢時代の地図。オレンジ色は直轄地、茶色は諸侯が封じられた領土を示す。
時は三国時代。220年に関羽が死に、荊州の残りの 南半分(武陵郡、零陵郡、南郡)が呉領に併合される。そして、222年の夷陵の戦いで劉備を撃破した後、完全に呉の領有が確定する。
226年、呉は長沙郡を分割し、新たに昭陵郡を設置する。この昭陵郡は 昭陵県(今の 邵陽市旧市街地に築城。郡都を兼ねる)、昭陽県、夫夷県、都梁県、高平県、新城県の 6県を管轄するものとされた。
呉の降伏により、280年に三国を統一した西晋の司馬炎はその父であった司馬昭を称えて、昭陵郡を邵陵郡へ、昭陵県を邵陽県へと変更する。これが、現在に残る「邵陽」に継承されていくこととなる。また、郡役所は資江北岸の北塔湾へと移転される。あわせて、新城県が廃止され、邵陽県へと吸収される。また都梁県が 武岡県、建興県、都梁県の 3つに分割され、これに 邵陵県、邵陽県、夫夷県、高平県を加えた 7県が、邵陵郡に統括されることとなる(湘州に帰属)。
以後、この行政区が継承されていくも、隋代には邵陵郡が建州へ、唐代には南梁州や 邵州(邵陽県と武岡県のみ統括)、敏州などへと改名されていく。ちなみに、邵陽県役所は今の 邵陽市旧市街地に、武岡県役所は今の城歩儒林鎮に開設されていた。
宋代初期、武岡県役所が城歩儒林鎮から今の武岡古城へ移転される。 1106年には武岡軍が設置される。
南宋朝 5代目皇帝・理宗が皇太子であった当時、邵州防御使に封じられていたことがあり、宰相の史弥遠による工作で王位に就いたとき、年号を「宝慶(1225年~)」と定めたことに関連し、邵州を宝慶府へと昇格させる。自身が大器晩成で成し遂げた王位継承を記念した、この命名以後、 700年以上もこの地名が継承されていくこととなる。
南宋を滅ぼした元王朝時代、宝慶路と武岡路が設置された。
明代には宝慶府と武岡府が置かれ、後に武岡府は州へと降格され、宝慶府は 武岡州、邵陽県、新化県、城歩県、新寧県の 1州 4県を管轄する中心都市とされる。清代もこのままの行政区が継承された。
中華民国となって翌年の 1913年、宝慶府が廃止され、宝慶県となる。その後、湘江道や湖南省に帰属された。 1928年、宝慶県は邵陽県へと改名され、共産党時代の 1950年に県級市へと昇格し、今日まで至る。
さて、春秋戦国時代からの歴史を有する、邵陽市旧市街地にあった 邵陽古城(邵陵県城、宝慶府城)跡であるが、今日では城門も城壁も全く残されていない。路地名にわずかな記憶が感じられるのみであった。北門口総合農貿市場、南門口(バス停)、南正街、城北路、府門口社区 など。
同じく、また前漢時代に都梁侯国の王城として築城されて以来、都梁県城 → 武岡県城へと改名されつつ、城域を拡大してきた古城跡も、その面影は全く残されていない。しかし、今日でも路地名にはしっかりとかつての王城も担った自負を感じる名称が数多く目についた。城濠路、王城路、王城公園、小皇城幼稚園、北門閘二巷、東塔二巷、東塔村、東門旺角、南門口、銀行城西支店、大砲台 など。
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