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商丘市
訪問日:20--年-月-旬 『大陸西遊記』~
河南省 商丘市 ~ 人口 610万人、 一人当たり GDP 22,000 元
➠➠➠ 商丘市の 城跡リスト ➠➠➠
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睢陽県城(商王朝の最初の王都跡:亳、梁郡城、徐州城、宋州城、宋城県城、睢陽郡城、南京城、歸徳府城)
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酇県城
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柘県城(春秋時代の陳国の王都跡)
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平城県城(馬頭郡城)
【 商丘市の 歴史 】
舜王の統治時代、五帝の一人であった帝喾の子の 契(閼伯)が、禹による黄河の治水工事を支援し、 成功に導いた功績により、舜王から 商(今の 商丘市睢陽区)の地を分与される。 閼伯は死後、この地に葬られ、墓所一帯は商丘と通称されるようになる。
この 契(閼伯)の 13代目子孫が、後に 商(殷)王朝を建国する成湯である。
また、禹王が舜王からの王位継承を受諾した後、 舜王の子の商均を 虞(今の 商丘市虞城県)の地に封じ、有虞氏と号させた。
そして、この禹王により、最終的に 夏王朝(王都は 陽城【今の登封市】)が建国される。 紀元前 1943年には、国王の姒相により、王都が 商丘(今の 商丘市睢陽区)の地へ遷都される。
紀元前 1875年、国王の姒少康が有虞氏国の支援の下、 王都の 綸邑(今の 商丘市夏邑県)の奪還に成功し、夏王朝を再建する。そのため姒少康は中興の祖と言われる。
このころ、閼伯の子孫にあたる相土が商の地に乗馬文化を導入している。 また閼伯の 6代目子孫の王亥はその先進的な政治改革により、商民族を強大化させたことから商民族の始祖とも称された。
ついに紀元前 16世紀、 契の 13代目子孫にあたる成湯が夏王朝を滅ぼし、以後 470年にわたる 商(殷)王朝が建国される。 その王都は 亳(今の商丘市)の地に開設された。
さらに時は下って紀元前 1045年、 その 商(殷)王朝を滅ぼした西周朝の初代国王である 姫発(武王)は、 娘婿である陳胡公を 胡の地(今の 商丘市柘城県胡襄鎮)に封じ、陳国を建国させる。
紀元前 1040年に周公旦が武庚の乱を平定した後、 2代国王に即位していた成王が 殷(商)王朝の皇室の末裔である微子啓を 亳の地(今の 商丘市)に封じ、宋国を建国させる。
紀元前 286年、 斉国が宋国を滅ぼし、斉国と 魏国、楚国が旧宋領を分割する。このとき、商丘市一帯の大部分は魏領下に組み込まれた。 魏国が商丘市一帯を占領すると、魏国の公子であった魏無忌が 信陵の地(今の 商丘市寧陵県)に封じられ、 信陵君と呼称されるようになる。 後に魏国の軍権と、周囲の五ヶ国連合軍をまとめ上げ、蒙驁の率いる秦国の主力軍を撃破した人物である。
秦の始皇帝が中原を統一すると、商丘市エリアは碭郡の管轄下に置かれた(今の 商丘市柘城県のみ陳郡に帰属)。
始皇帝が紀元前 210年に死去すると、早くも全国で反秦の動きが活発化する。 その筆頭を飾ったのが、陳勝と呉広の農民反乱であった。彼らが大澤郷で決起すると、 破竹の勢いで現在の商丘市下の 酇県城(今の 商丘市永城西)と 柘県城(今の 商丘市柘城県胡襄鎮)を攻略し、 張楚政権の版図下に組み込んだ。
劉邦が前漢朝を建国した紀元前 202年、碭郡は梁国へ昇格され、 その国都が 睢陽県城(今の 商丘市睢陽区)に開設される。
前漢朝 5代目皇帝・文帝(劉恒)の子であった劉武が梁国の国王に封じられる(紀元前 168年)。
この梁国内には 40以上もの県城が配されており、かつ、 黄河を挟んで 王都・長安がある黄河流域と江東などとの中間地点に位置し、経済的にも軍事的にも、漢朝廷にとっては重要なエリアであった。
紀元前 154年に呉楚七国の乱が勃発すると、 劉武は前漢朝廷側に組し、その最前線で死闘を繰り広げ、多くの戦功を挙げたため、朝廷より莫大な恩賞を下賜されている。 劉武はその財力で、睢陽城内に豪奢な宮殿を立て、三百里梁園を造園している(後世、この庭園は多くの文人らに愛でられることとなる)。
三国時代期、曹操の後を継いだ曹丕が後漢朝から権力禅譲を受け、 魏王となった 220年、梁国が梁郡へ改編される。その管轄下には、下邑県、睢陽県(郡都を兼任)、 虞県、碭県、蒙県、穀熟県、寧陵県、薄県が配された。下地図。
ちなみに、初代の梁郡太守に就任した 盧毓(183~257年)は、 蜀の劉備の師匠であった 盧植(139~192年)の子である。
時は下って、五胡十六国時代下の 後趙、前燕、前秦、後燕、 後秦王朝の治世下、引き続き、商丘市一帯は梁郡に属した。 後秦時代にはこの地に 徐州(州役所は今の 商丘市睢陽区に開設)が新設される。
529年4月、元顥が梁国下の 睢陽県城(今の 商丘市睢陽区)で皇帝に即位し、 北魏朝を建国する(建武帝)。
北魏の時代、徐州に属し、域内には 梁郡(郡役所は今の 商丘市睢陽区)、 譙郡(郡役所は今の 商丘市梁園区蒙墙寺村)が開設されていた。
東魏の時代、平城(今の 商丘市夏邑西南馬頭寺村)に馬頭郡が新設され、譙郡が廃止される。
隋代初期の 596年に全国的に郡制が廃止されるに及び、梁郡は宋州へ改編されるも、 607年に再び、梁郡に戻される。
唐代初期の 621年、再度、宋州へ改称される。 州役所は 宋城県(今の 商丘市睢陽区)内に開設された。 742年には睢陽郡が新設される(同じく河南道に帰属)。
756年の安史の乱に際し、守将・張巡による決死の籠城戦が、 この 睢陽郡城(宋城県城)で繰り広げられた(上地図)。
この防衛戦は唐史上、最も凄惨を極めた防衛戦となるも、 安史の反乱軍が南下して江南一帯が戦火に巻き込まれることを防いだと言われる。 しかし、睢陽城内の 90%以上の家屋と人口が壊滅するという代償を支払うこととなった。下絵図。
758年、睢陽郡が宋州へ戻される。
五代十国時代の梁朝の治世下の 909年、宋州は宣武軍へ昇格される。 続く南唐の治世下の 923年、歸徳軍へ改編される。
後周時代には宣武軍へ戻される。趙匡胤が後周により歸徳軍節度使に任命され、 その藩鎮役所を 宋州の地(宋城県城)に開設したので、後に彼が建国する王朝は「宋」を国号とすることとなる。
北宋時代初期、宋州が復活設置される。
1006年には宋州が応天府へ昇格される。 このとき、応天府(宋城県城)内に京東東路の路役所が開設されたが、後に京東西路の路役所が入居し、 京東西路の中心都市とされた。
1014年、応天府が 南京(宋城県城)へ昇格され、北宋の副都に選定される。
南京城(宋城県城)内には隔城があり、城内を南北の二つに分離していた。
南北を分離された城壁の東側には、北に延和門と南に昭仁門があり、 また、西側には北に順成門と南に回銮門があった。そして、城壁の北側には静安門、南側には崇礼門がそれぞれ一カ所ずつ設置されていた。 なお、城内の隔城にも 2門が設けられており、東側は承重門、西側は有祥輝門と通称された。
王宮の宮城壁の周囲は全長 2 kmにも及び、 南北にそれぞれ 1つずつ城門を有した(重熙門と頒重門)。 王宮内の正殿は歸徳殿と通称され、さらに北側に第々の皇帝を祭った祖廟が設置されていた。
1127年5月に趙構が 南京応天府(宋城県城)で即し(高祖)、南宋朝を建国する。 商丘市中心部は、まさに南宋建国時の最初の王都となったわけである。 1132年に 臨安城(今の杭州市)へ遷都される。
しかし、華北全土が金朝に征服されるに及び、 金朝の支配下の 1130年、応天府は歸徳府へ改称される(南京路に帰属)。 その金朝も、北の チンギス・ハーン率いるモンゴル軍により国土を蹂躙され、 1214年には王都を燕京から開封へ、1232年の三峰山の戦いに大敗した直後の同年 12月、 開封から更に 歸徳府(宋城県城)へ王都を遷都するも、1234年についに金朝最後の皇帝である哀宗も捕縛され、滅亡に追い込まれている。
その金朝もモンゴル軍により滅ぼされ、新たに元朝が建国される。 その治世下、歸徳府が継承され、河南江北等処行中書省に属された。また、歸徳府役所の入居する宋城県城は睢陽県城へ改名される。
元末期に中国各地の反乱軍を統合した朱元璋は、元朝の 首都・大都への侵攻前に、 この 歸徳府城(睢陽県城)も攻略している。下地図。
明代の 1368年、歸徳府は歸徳州へ降格される(河南承宣布政使司に所属)も、再び、1545年に歸徳府へ昇格する。
清代も明代の 歸徳府(睢陽県城)による統治体制が踏襲される(河南省に帰属)。
中華民国が建国された翌 1913年、中国全土で府制が廃止され、歸徳府は歸徳県へ降格となる。 以後、その他の諸県とともに歸豫東道の管轄下に組み込まれた。
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