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上海市 地図
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上海市
訪問日:20--年-月-旬 『大陸西遊記』~
上海市 ~ 人口 2,510万人、 一人当たり GDP 100,000 元
➠➠➠ 上海市内の 城跡リスト ➠➠➠
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上海県城
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華亭県城(華亭府城・松江府城)
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泗涇老街
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類県城
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青浦県城
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柘林鎮城
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【初代】奉賢県城(南橋鎮城)
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【二代目】奉賢県城(青村中前所城、奉城鎮城)
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青村鎮老街(青村港の旧市街地)
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南滙県城
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川沙托民庁(川沙古城壁公園)
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金山衛城(【初代】金山県城)
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朱涇鎮城(【二代目】金山県城)
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前京県城(軍事要塞「金山城」) ~ 水没した歴史遺産
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上海市屈指の 古刹・万寿寺 ~ 三国時代、呉の孫権により建立
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亭林鎮城(金山司)
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胥浦県城(干巷老街)
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嘉定県城
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宝山県城
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崇明県城
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呉淞砲台紀念広場
【 上海市の 歴史 】
現在の上海市一帯は、古代においてはすべて海であった。 北に流れる長江と、南に流れる 銭塘江(杭州湾)が運ぶ土砂が徐々に堆積して形成された砂州が巨大化したもので、 沿岸部は常に遠浅の海と 海抜 0 mの平原とのせめぎあいとなっていた。
このため古代より、度々洪水や津波に襲われており、都度、人々は堤防を修復しつつ、 桑畑や水田など農地拡大に精進してきたのだった。
最終的に、現在の浦東新区までの陸地化が完了したのは唐代初期と考えられている。
このため、中原が春秋時代であったころ、未だ現在の市域の 3分の 1しか陸地化されていなかった上海市は、 呉国の版図下にあって海岸の辺境地方でしかなかった。
戦国時代期に突入すると、呉を滅ぼした越国に、さらに越を滅ぼした楚国の領土に組み込まれていく。 最終的に紀元前 223年に楚を滅ぼした秦国により占領され、翌紀元前 222年、江東地方の統治機構として新設された会稽郡の下、 海塩県の県役所が開設される。 その県城は、華亭郷(現在の 上海市金山区の南東部)にあった柘山の麓に築城された。 これが上海市域で最初の県城設置となる(
下地図の柘湖の部分
)。
しかし、秦朝末期の動乱の時代に地殻変動が起こり、 県城や住民ごとすべて
柘湖(現在の 浙江省嘉興市海塩県下の南北湖)
の底に沈んでしまうこととなる。 直後に、武原郷(今の
浙江省嘉興市平湖市
あたり)へ県城が移転され、 新規築城されるも、後漢時代の 130年ごろ、再び地殻変動により当湖に沈没してしまうのだった。以後、さらに一度の移転を経て、 最終的に東晋朝の治世時代の 341年、
馬嗥城 跡地(現在の
浙江省嘉興市海塩鎮新橋北路あたり
。春明時代には呉の軍事城塞があった) が大規模改修され、ここへ入居される。
上地図
。
また、漢代には
由拳県(今の 浙江省嘉興市南湖区)
や 類県(今の 江蘇省昆山市の北東部)などの新県が設置され、上海市域を分かれて統括した(下地図)。
以後、漢代、三国時代、南北朝時代前半までこのままの行政区が継続される(下地図)。
なお、後漢時代の中期、会稽郡(郡都は山陰県城 = 今の
浙江省紹興市越城区
)は浙江省の南北に分割され、 江東地方は新設の 呉郡(郡都は呉県城 = 今の
江蘇省蘇州市呉中区
)に帰属されることとなる。
そして南北朝時代、梁朝の治世下の 535年に信義郡下で 昆山県(今の 江蘇省昆山市)が新設されると、この管轄下にまとめられるも、 唐代後期の 751年、呉郡太守であった奏准により昆山県から
華亭県(今の上海市松江区)
が 分離・新設されると以後、 北宋時代まで、上海市域の大部分は華亭県と昆山県に、沿岸部の 一部(現在の 上海市崇明区)は海塩県に帰属された(下地図)。
華亭県
の設置は、上海市史上 第二例目の県役所の開設を記録させた。
華北地方が金朝により席巻され、北宋王朝が滅亡すると、 多くの避難民らが長江以南へ移民してくる。その膨大な流民たちの一部はこの江東地方にもなだれ込み、人口を急増させることとなった。
県下の人口増大と経済の急成長にともない、南宋朝は 1218年1月7日、
華亭県
から 嘉定県(今の 上海市嘉定区)を 分離・新設し、 行政区をさらに細分化させることとなる。 嘉定県の設置により、現在の上海市域に 2つ目の県城が開設されたことを意味した(史上では第三例目を記録)。
1276年に南宋の
王都・臨安(今の 浙江省杭州市)
を占領し、 南宋朝を崩壊させた元朝はその新支配地となったエリアの行政区改編を進める。こうした流れの中で、 翌 1277年、
華亭県
が華亭府へ昇格され、翌 1278年には松江府へ改称されるに至る(華亭県城内に併設)。
1282年には 上海県(今の 上海市黄浦区)が新設されると、同じく、松江府の管轄下に配された。
元代後期、現在の上海市エリアには
松江府
と 嘉定州、崇明州(南宋時代の 1277年に崇明県が崇明州へ昇格されていた。 明代初期の 1396年に崇明県へ再降格される)の 2州、及び、
華亭県
と上海県の 2県が存在していた。
元朝を滅ぼした明朝も、原則、そのままの行政区を踏襲するも、 急速な経済発展と人口増加により、県域の 分割・新設が繰り返され、 明代末期の頃には、
松江府
および、これに帰属した
華亭県
、上海県、
青浦県(今の 上海市青浦区)
の3県、 そして、蘇州府の管轄下にあった 嘉定県(今の 上海市嘉定区)と 崇明県(今の 上海市崇明区)の 2県および、
金山衛(今の 上海市金山区金山衛鎮)
が存在することとなった。
清代中期の 1726年、域内の人口増加に対応すべく、奉賢県や南滙県が新設されると、最終的に
松江府
下に
華亭県
、上海県、
青浦県
、類県、
奉賢県
、福泉県、
金山県
、
南滙県
の 8県と、太倉州下に嘉定県と宝山県の 2県が置かれることとなる。
最終的に 1805年、上海市一帯は 10県 1庁体制となっていた。すなわち、
松江府
下の
華亭県
、上海県、
青浦県
、類県、
奉賢県
、
金山県
、
南滙県
の7県と、
川沙托民庁
、そして、太倉州下の 嘉定県、崇明県、宝山県の 3県という構成であった。
清朝末期の 1843年、アヘン戦争の敗北により上海港が開港される。
1845年には、上海県城の洋涇浜より北側一帯には西洋人らの居留地が設置され、 後にイギリス租界地域を形成するようになる。
1849年、虹口一帯にアメリカ租界地が開発される。 その後、上海県城の北側からイギリス英租界地の南側までの一帯に、フランス租界地が開かれる。
1863年、英国とアメリカの租界地が共有化される。1899年には、これが上海国際共同租界へと改称される。 以後も、ますます租界地区は拡大されていった。
1912年に清王朝が滅び、中華民国が建国されて以降も租界地は存続される。
1930年7月、上海特別市から上海市へと改称される。
しかし、1931年の満州事変に端を発する日中戦争が激化する中で、 1937年11月、上海市もついに日本軍の手に落ちる。また、真珠湾攻撃後、 英米と日本との交戦も激化する中で、1943年夏に日本軍の傀儡政権であった 汪政府により、英米共同租界地とフランス租界地すべての没収が発表される。
第二次世界大戦後の 1945年11月24日、 国民党政府により旧上海共同租界地や旧フランス租界地のすべてが接収され、ここに上海の租界地は正式に終焉を迎えることとなった。 1949年の中華人民共和国の建国以後、政府直轄地となり今日に至る。
なお、元朝時代の 1282年に初めて開設され、築城された上海県城であるが、 その城壁跡はすべて撤去されたものの、一部の土塁は「古城公園」に保存されている。また、城郭都市時代の記憶は、 今に残る路地や地名にはっきりと刻み込まれている。老北門郵便局、旧倉街、東門路、四牌楼路、スーパー城隍廟店、塩碼頭街、 小南門駅(地下鉄)、王家碼頭街、小南門警鐘楼、南門ビル、中国移動老西門支店、銀行老西門支店、旧校場街、上海城隍廟 など。
なお、現在の上海での 有名観光地「豫園」は、かつて城内にあった地元名士所有の庭園跡である。
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