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訪問日:20--年-月-旬 『大陸西遊記』~
海南省 三亜市 ~ 人口 70万人、一人当たり GDP 37,000 元
➠➠➠ 三亜市内の 城跡リスト ➠➠➠
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崖州城(寧遠県城、臨振郡城、振州城、延徳郡城、寧遠郡城、珠崖軍城、吉陽軍城)
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唐代の 高僧・鑑真(688~763年)の 台風被災後の上陸地点と 滞在した「大雲寺」
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臨川県城(臨川鎮城。今の 三亜市吉陽区臨春村の東側に連なる打狗嶺の中腹あたり)
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吉陽県城(藤橋鎮城、藤橋巡検司、永寧巡検司。今の 三亜市海棠区藤橋鎮)
【 三亜市の 歴史 】
海南島(ちょうど日本の関東地方と同じ面積)では、遅くとも 1万年前には、古代人類の生息があったことが確認されており、春秋戦国時代以前には、百越の地、特に 駱越族(ベトナム人の祖先)のテリトリーに組み込まれていた。
秦の始皇帝が華南地方を征服すると、中央集権体制に組み込むべく、三郡を新設する。この時、海南島は 象郡(郡都は、臨尘県城に開設 ー 今の
広西省崇左市
)に統括されるも、島内には一切の県城も開設されず、実際には放棄されたままであった。
紀元前 111年、前漢朝 7代目皇帝・武帝により南越国が滅亡に追い込まれると、華南地方はすべて前漢朝の直轄領に組み込まれる。翌紀元前 110年、海南島を統括すべく、珠崖郡と儋耳郡の 2郡と 16の県役所が島内全域にわたって配置される(下地図)。
時は下って 610年、隋朝廷は海南島の南西部を分離し、
寧遠県城(今の 三亜市崖州区崖城鎮)を郡都とする、臨振郡を新設する
(上地図)。
唐代初期の 622年、臨振郡が振州へ改編されると、同時に
臨川県(今の 三亜市吉陽区臨春村の東側に連なる打狗嶺の中腹あたり)
が新設される(上地図)。 628年には、延徳県(今の 海南省楽東黎族自治県黄流鎮)の一部が分離され、
吉陽県(今の 三亜市海棠区藤橋鎮)
が新設される。
742年、振州が延徳郡へ、756年には寧遠郡へ改称された後、758年に再び、振州に戻される。
五代十国時代、振州はそのまま踏襲されるも、配下の県役所は削減され(特に南漢王朝時代の 950年ごろ)、最終的に 寧遠県と吉陽県の 2県体制となる。この時、臨川県も廃止され、寧遠県に吸収合併されていた。
北宋時代の 972年には振州が崖州へ、1073年には珠崖軍へ、1117年には吉陽軍へ改称される。
明代初期の 1368年、吉陽軍が崖州へ戻される(上地図)。 1439年、
寧遠県(今の 三亜市崖城鎮)
が廃止され、その行政区は崖州に直轄される。
清代も、明代の行政区が踏襲される。
清末の 1905年、崖州が散州から直隷州へ昇格されると、
万安県(万県、万州)
、
陵水県
、
昌化県
、
感恩県
の 4県を統括した(下地図)。
中華民国初年の 1912年、全国で州制が廃止されると、崖州は崖県となる。
1954年10月、崖県役所が、
今の 三亜市崖城鎮
から
三亜市吉陽区(中心部)
へ移転された後、1984年5月19日に三亜市へ昇格され、今日に至る。
なお、この「三亜」の地名であるが、三亜河(旧名:臨川水)に由来しており、三亜東河と三亜西河がこの地で「丫字形」に合流したことから、三亜と命名されたという。既に、明代の史書に「三亜村」「三亜里」の地名が記録されていたことが分かっている。
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