ホーム
中国地図 ~
三国志 遺跡 ~
中国 オススメ
世界の城郭
日本の城
城郭都市 概説
歴史 雑学
当研究会 情報
中国地図 から
≫
雲南省 地図
≫
曲靖市
訪問日:20--年-月-旬 『大陸西遊記』~
雲南省 曲靖市 ~ 人口 690万人、 一人当たり GDP 36,000 元
➠➠➠ 曲靖市内の 城跡リスト ➠➠➠
▼
クリック
▼
味県城(建寧郡城、寧州城、【初代】南寧州城)
▼
石城(【二代目】南寧州城、郎州城、石城郡城、石城千戸所城、【初代】南寧県城)
▼
曲靖府城(【二代目】南寧県城、曲靖軍民府城)
▼
馬龍州城(銅瀬邑、銅瀬県城、同瀬県城、同起県城、曲軛川、納垢部、納垢千戸城)
▼
諸葛山(馬龍区旧県鎮下袜度村の北東 8 km。孔明の南征時、蜀軍部隊が駐屯した伝承あり)
▼
平彝県城(平夷県城、平蛮県城、亦佐県城、平夷衛城。今の 曲靖市富源県富村鎮亦佐村)
【 曲靖市の 歴史 】
市内の宣威市格宜鎮の南約 500 mにある小紅山の山裾にある 洞窟「尖角洞」や、麒麟区珠街村董家村にある八塔台古墓群の古代遺跡から、早くも旧石器時代に南盤江の流域一帯に生息した古代人類の存在が確認されているという。約 3000~4000年前には、すでに農耕文化も伝播していたとされる。
時は下って春秋戦国時代下の紀元前 279年、戦国七雄の 一角・楚国の 頃襄王(在位:紀元前 298~前 263年)は、同じ皇族の末裔で大将軍の 莊蹻(?~紀元前 256年)を
四川
、雲南、
貴州
方面へ派遣し、2年かけて一帯の武力平定に成功する。当時、蜀と巴と呼ばれた四川省一帯は、紀元前 316年から秦国の支配下となっており、長江上流から楚国を脅かしかねないロケーションにあったため、楚国はこの占領を決行したわけである。下地図。
しかし、紀元前 277年、蜀と巴地方が秦国に再占領されてしまい、楚国への退路を断たれた莊蹻と楚の遠征軍は、この駐屯先で古滇国という独立国を建国することとなる。当時から雲南地方の最大の湖であった滇池の周辺一帯を勢力圏に治め、現在の
昆明市晋寧区晋城鎮
に王都を建設したのだった(当時から、すでに地元部族が形成した一定規模の集落地があったと考えられる)。
以後、現在の曲靖市一帯は、古滇国と中原諸国との交易路上に位置することとなり、文化の融合と開発がスタートされたと考えられている。当時、靡莫族が多く割拠するエリアだったらしい。
紀元前 221年、秦の始皇帝が中原を統一すると、さらに北の匈奴や華南方面への遠征が繰り返されることとなり、その一環で雲南省へも派兵される(上地図)。軍事力で圧倒された古滇国は降伏に追い込まれるのだった。
こうして雲南省東部をも併合した秦朝は、四川盆地の
宜賓市
(当時、僰道と呼ばれた)から 曲靖市(当時、建寧と呼ばれた)の間に 街道「五尺道」を整備し、官用道路と定めたのだった。これにより、中原文化が直接的に雲南地域へ伝播されるようになり、さらに後年、ミャンマー等へ続く 西南シルクロードへと延伸されていくこととなる。下地図。
時は下って紀元前 109年、前漢朝の武帝は周辺諸国への出兵を積極的に進め、この一環で雲南地方への勢力拡大も図られることとなり、独立心を強めつつあった古滇国などの諸部族の征伐に乗り出す。前漢の大軍勢の前に力尽きた雲南省東部の地元部族らは前漢朝に再帰順することとなり、武帝により中央集権体制の導入が進められる。
直後に益州郡が新設され、その下に、味県(今の
曲靖市麒麟区三岔
)、牧靡県(現在の
昆明市尋甸県仁徳鎮の北東部にある 上古城村、下古城村あたり
)、銅(同)漱県(今の
曲靖市馬龍区
)、同労県(今の 曲靖市陸良県)など諸県が新設された。下地図。
時は下って、三国時代。蜀の 劉備死後(223年)、有力部族長・雍闓を中心に、雲南省一帯の諸郡も蜀への反抗を強め、呉の孫権へ帰順を試みる。すでに、劉備率いる蜀軍の大敗を知り、帰属先を呉に変更していた
交州の士燮
の仲介も経て、一時的に呉の勢力圏下に組み込まれた。さらに、曲靖市出身であった孟獲もこの檄を受け、周辺部族らの説得工作を進めていく。
しかし、225年、蜀本軍の諸葛孔明が南蛮遠征を決行するに至り、首謀者であった雍闓は殺害され、孟獲が代わりに総大将として祀り上げられるも、同年 9月までの約半年にわたる戦いを経て(下地図)、雲南地方の中心地区を成した「滇池」の 湖畔地帯(現在の
昆明市
)にまで蜀軍が至り、孟獲は完全降伏に追い込まれるのだった(下地図)。
孔明は反乱の平定後、益州郡から建寧郡を分離・新設し、
味県城(今の 曲靖市麒麟区三岔
)を郡都に定めて、自身は成都に凱旋するのだった。
その蜀も 263年に魏(後に西晋)より滅ぼされると、西晋朝統治下の 270年8月、建寧郡、雲南郡、永昌郡、興古郡の 4郡が分離され、寧州が新設される。そのまま
味県城
が寧州の州都、建寧郡の郡都を兼務することとされた。
当時、全国的に行政区分の再整備が進められており、寧州は全国に新設された 19州(司州、兖州、豫州、冀州、幽州、平州、雍州、凉州、秦州、梁州、益州、青州、徐州、荊州、揚州、交州、広州、並州)の一角を占める地位にあった。つまり、味県城が全国 19州の州都の一つに君臨していたのである。
時は南北朝時代、雲南地方を勢力下においた北周朝は間接統治体制を採用し、地場部族長の爨氏を寧州刺史に任命する。
しかし、北魏時代に設置されていた 寧州(現在の 甘粛省慶陽市寧県)と混同する恐れが生じたため、雲南省側の寧州は 南寧州(甘粛省の方は北寧州)へ、甘粛省側の寧州は北寧州へ改称されることとなる。このとき、始めて「南寧」の地名が誕生することとなった。
北周朝から権力禅譲を受けた隋王朝は、引き続き、
味県城
に南寧州総管府を開設するも、雲南エリアの地場部族らの反乱が頻発するようになり、2回の大規模遠征軍を派兵し、平定戦に乗り出すも失敗に終わる。このとき、南寧州下の味県城や各地の集落地は徹底的に破壊され荒廃したという。最終的に隋朝は雲南地方の支配を放棄し、北へ撤退したのだった(上地図)。
間もなく隋王朝も滅び唐王朝が成立すると、全国で郡制度が廃止され、州制度が採用される。このとき、唐王朝に帰順した雲南省内の地場部族は南寧州下の官吏として間接統治を担うこととされた。下地図。
しかし、唐朝の雲南支配は かなり手を焼かされることとなり、朝廷は 625年、名代官として
四川省
内で名をはせた韋仁寿を南寧州都督に派遣する。
彼は隋末に混乱した四川省で司法代官を務め、当時、賄賂政治が横行する中で清廉潔白な判決を連発して市民生活の平穏を保ったことで有名となり、四川省が唐朝に併合された後も、618年、巂州都督府(州都は 越巂県城【今の 四川省凉山彝族自治州 西昌市】)長官に登用されて、少数民族らが割拠するエリアの混乱収拾に成功した人物であった。その手腕を買われて、独立気質の強い地場部族らの跋扈する南寧州の長官に抜擢されたのだった。
隋末からの戦乱で、南寧州の州都であった
味県城
は荒廃し、その再建もままならない状態の中、赴任直後より精力的に政務に励み、現地での司法制度の徹底と、平等な施策を進める中で、地場豪族らの厚い信用を得るようになる。
しかし、寂れ果てた味県城内で落ち着いて政務が執れない中、韋仁寿ら一行が現地を退去しようとすると、地元部族長らが必死に引き留め、味県城に代わる城塞をすぐに築城する!、ということで一致団結し、わずか 10日間で、
北 8 kmの 地点(現在の 曲靖市街区の白石江公園付近)に新たに城塞都市を建造したのだった。これが後に石城と呼ばれることとなる
。
そのまま旧味県城内の軍民が移住するとともに、南寧州役所や韋仁寿の居宅が建設されたのだった。
こうして平静が保たれた南寧州は 634年、郎州へと改名され、郎州都督府となるも、717年に再び南寧州都督府へと戻される。
唐代も中期に差し掛かった 100年後の 8世紀中盤(上地図)、安史の乱などで中央が乱れると、唐朝の国境は度々、周辺国に脅かされることとなる。特に西域チベット高原に勢力をもった吐蕃国との抗争は 200年にも及び、吐蕃と結びついた雲南省西部の部族長らが南詔国を建国し、唐朝と度々、戦端を開くこととなった。
751年と翌 752年の 2回戦にも及ぶ唐朝との 戦争(天宝戦争)を、吐蕃国の支援で乗り切った南詔国は 748年、雲南省東部(
昆明市
や曲靖市一帯)をも制圧し、この地に拓東節度使を設置することとなる。
755年に三回目の対唐戦争で 20万人もの唐軍を壊滅させることに成功すると、雲南地域の支配権は完全に南詔国に帰することとなった。
以降、雲南地域の 政治、経済、軍事の中心は、南詔国の王都があった
大理
へと移り、ここに 530年間にも及んだ曲靖市が有した雲南地方の中心都市としての地位は終わりを告げたのだった。
南詔国とこれに続く大理国は、唐朝時代初期に築城された
石城
をそのまま使用し、石城郡を設置する(上地図)。
その南詔国も 902年に滅亡し、雲南省内で再び群雄割拠の時代が到来すると、段思平が 937年、諸部族らを統一し、大理国を建国するに至る。しかし、当時は雲南省西部のみを勢力圏としており、東部には磨弥民族などが割拠する戦国時代が継続された。
大理国で 5代目国王・段素順が即位すると、翌年より東征が決行され、東部 37部族長が大理国の配下に帰参することとなり、971年、この石城内にて大理国王と 37部族長との 血盟同盟(主従関係)が締結され、これを記念する石碑が建立されたのだった(現在の
曲靖市一中学の校庭内に現存
)。
その大理国も 1253年、フビライ率いるモンゴル軍が金沙江を渡河し、雲南地域へ侵攻してくると、三か月後も経たずに全面降伏に追い込まれる。
2年後の 1255年には雲南省全域がモンゴル帝国の支配下に組み込まれる。元王朝支配の下、石城内には磨弥万戸府と石城千戸が設置される。
1271年、磨弥万戸府が中路総管府へ、1276年には曲靖路総管府へと改編される。一方、同 1276年に石城千戸は南寧州へと変更される(最終的に 1285年、南寧州は南寧県へ降格)。
さらに 100年後の 1368年、大陸中国での元王朝の支配体制も崩壊し、明の朱元璋により大都(現在の
北京市
)を占領され、モンゴル高原への撤退に追い込まれる(上地図)。
こうして中原が漢民族の手に落ちる中、引き続き、梁国王・把匝刺瓦爾密(元朝初代皇帝のフビライは、自身の第 6男であったフゲチを 1267年、雲南王に封じ、この地に派遣していたわけであるが、その子孫にあたる)は、この封地にあって安定政権を保持していた。
明軍が
四川省
にあった大夏国を滅ぼし(上地図。1371年)、すぐ北に国境を接するようになるも、梁国王・把匝刺瓦爾密は北元となったモンゴル帝国に忠誠を尽くし、明朝からの度々の 降伏勧告(雲南地域の自然環境を考慮し、力攻めには消極的であった)を拒否し続ける。
ついに 1381年、明朝は潁川侯の傅友徳、永昌侯の藍玉、西平侯の沐英を 3大将とし、雲南地方へ 30万の大軍を派兵する。上地図。
そして両軍は、この
石城(曲靖路総管府、南寧県城)
をめぐって激突したのだった。把匝刺瓦爾密らの 梁王国(モンゴル軍)と 地元部族連合軍 10万と、明軍 30万との命運を決する一大決戦となり、史上有名な 石城の戦い(別名、白石の戦役)と通称されることとなる戦闘である。上地図。
最終的にこの戦いで大敗した 梁王国(モンゴル軍)側は総崩れとなり、王都・
昆明城
は陥落し、翌 1382年1月6日、把匝刺瓦爾密はその家族を滇池で溺死させ、自らは側近の 左丞・達徳、右丞・緑爾夜らと共に小さな小屋で自刃して果てたのだった。
この戦争で 中心都市「石城」が荒廃してしまったため、明の占領軍は 1387年、かつての前漢時代の味県城跡地に新しく
城壁都市「曲靖府城」
を築城することとなる。
完成後の 1394年、曲靖府が曲靖軍民府へと昇格され、城内に南寧県役所も併設されることとなった。上地図。
この南寧県は以降も、明代から清代に継承される。
清代の 1765年、曲靖軍民府が曲靖府へと改編される。
この曲靖府が開設された 曲靖城(南寧県城)は、明代の築城以来 600年間、曲靖平野の 政治・経済・文化の中心都市であり続け、付近を流れる南盤江の水運を活かして商業が発達し、その豊かな水資源と広大な平地を活かした農地開墾が進むとともに、中原から多くの漢民族らも移民も流入し、中原文化が伝播して大いに繁栄を謳歌したという。
1913年の中華民国成立後、曲靖府が廃止され、南寧県は曲靖県へと改名される。
© 2004-2024 Institute of BTG
|
HOME
|
Contact us