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秦皇島市
訪問日:20--年-月-旬 『大陸西遊記』~
河北省 秦皇島市 ~ 人口 310万人、 一人当たり GDP 42,000 元
➠➠➠ 秦皇島市内の 城跡リスト ➠➠➠
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肥如県城(【2代目】遼西郡城、【初代】平州城)
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絫県城
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臨榆県城(臨榆鎮城)
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陽樂県城(【初代】遼西郡城)
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盧龍県城(新昌県城、北平郡城、【2代目】平州城、盧龍軍城、興平府城、永平 / 平滦路城)
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【初代】撫寧県城
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【2代目】撫寧県城(新安鎮城)
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広寧県城(【2代目】營州城、昌黎県城)
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望都県城(海山県城)
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海陽県城(潤州城、海陽軍城)
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山海関(遷州城、遷民県城、興善軍城、遷民鎮城)
【 秦皇島市の 歴史 】
すでに 50~60万年前に古代原人の生息が確認されているという。特に、市内では、新石器時代期の農耕集落の遺跡が複数発掘されており、かなり早い時期に先進的な文化が導入されていたことが分かっている。
商(殷)王朝の治世時代、高度な文明を有した孤竹国が存在し、その王都は今の 秦皇島市盧龍県蔡家坟村の北側に開設されていた。
商(殷)王朝が滅亡すると、孤竹国は続く周王朝に服属している(下地図)。
春秋時代下の紀元前 664年、その孤竹国も斉国により滅ぼされる。ここに 940年以上の歴史を誇った孤竹国は終焉を迎える。
また紀元前 530年秋、晋国が 肥子国(今の 石家庄市藁城区城子村に王都遺跡あり)を滅ぼすと、肥子国の皇族たちが燕国へ亡命してくる。燕国は肥子国の皇族を保護し、かつての 孤竹国跡(今の 秦皇島市盧龍県蔡家坟村の北側)一帯に肥子国を再建させる。以後、当地は燕国内でも最も富裕な地に成長することとなる。
戦国時代を通じ、秦皇島市エリアは燕国下の遼西郡に帰属された。下地図。
秦の始皇帝が中原を統一すると、全国に郡県制が導入される。引き続き、遼西郡が継承される。
なお、秦代から前後漢時代を通じ、この地域は東部の諸民族らとの抗争の最前線エリアとなる。
秦の始皇帝は、4回に渡って当地を訪問しており、紀元前 215年に碣石の岬に立ち寄った折には、岩場に「碣石門辞」の文字を刻んでいる。
また同時に、燕国出身の盧生、韓終、侯公、石生らの方士に、海の彼方に存在するという仙人を探索させ、不死の薬を入手させるべく、ここから派遣している。
皇帝自ら当地に一時滞在したことから、後に秦皇島という地名が誕生する。
前漢時代、現在の秦皇島市撫寧県北部と青龍満州族自治県の一帯は、右北平郡の管轄下に置かれ、撫寧市の西部には驪城県が新設される。上地図。
一方で、現在の盧龍県、昌黎県、秦皇島市中心部は遼西郡に帰属される。この一帯は、肥如県(今の 秦皇島市盧龍県の北側)と、絫県(今の 秦皇島市昌黎県)が統括した。上地図。
両者はともに幽州に属した。
後漢時代にも引き続き、肥如県城が継承され、また 臨榆県城(今の 秦皇島市撫寧県榆関村)が新設されている。 現在の秦皇島市の西部は肥如県に、東部は臨榆県に帰属された(引き続き、遼西郡に所属)。下地図。
三国時代は曹魏領に組み込まれる。陽樂県城(今の 秦皇島市盧龍県の東側)と 肥如県城が設置されており、それぞれ前者は現在の昌黎県の西部と海陽県などの一帯を、後者は現在の盧龍県の北部と青龍満州族自治県の大部分を管轄した。なお当時、陽樂県城が遼西郡の郡都を兼務した(上地図)。
西晋朝もこのままの行政区が踏襲される。この頃、臨榆県(今の 秦皇島市撫寧県榆関村)が臨榆鎮へ降格される。
五胡十六国時代を通じて、前燕、前秦、後燕、北燕と為政者はめまぐるしく変化するも、秦皇島市一帯はそのまま遼西郡(郡役所は肥如県城に開設)に帰属された。
華北を統一した北魏の治世下、肥如県城(遼西郡の郡都)内に、新設された平州の州役所が併設される(上地図)。また、新昌県城や 陽樂県城(共に右北平郡に所属)は、この統括下に組み込まれた。
東魏朝の時代には、新昌県城(今の 秦皇島市盧龍県の旧市街地)に 北平郡の郡役所が移転される。
南北朝時代を統一した隋朝により、全国が 57郡に再編されると、今の秦皇島市エリアは現在の戴河と秦皇島市撫寧県榆関村を中間ラインとして東西に分割される。すなわち、秦皇島市盧龍県の東半分、及び青龍満州族自治県は 遼西郡(郡都は 柳城県【今の遼寧省朝陽市】)に、西半分は 平州(新昌県と肥如県が所属)に統括されることとなる。
なお586年、肥如県は廃止され、新昌県に吸収合併される。598年には、新昌県が 盧龍県(引き続き、北平郡の郡都を兼務)へ改称される。下地図。
唐代初期の 619年、北平郡が再び平州へ改称され、その州役所はそのまま 盧龍県城(今の 秦皇島市盧龍県の旧市街地)に開設される。臨榆県(県役所は今の 秦皇島市撫寧県榆関村)も、引き続き、ここに帰属された。上地図。
同時にこの年、撫寧県(今の 秦皇島市撫寧県中心部)が新設される。しかし624年に、臨榆県と撫寧県が廃止され、盧龍県へ吸収合併される。最終的に 641年、臨榆県(697年に石城県へ改称)のみ復活設置される。
714年、盧龍県城内に 安東都護府(743年に盧龍軍へ改編)が開設される。上地図。
他方で、戴河の東側、および長城より北側は、河北道營州下の 柳城県(今の 遼寧省朝陽市。營州の州都を兼務)の管轄下に置かれる。このころ、榆関守捉城(今の 撫寧県榆関村)が設置される。
五代十国時代も唐代の行政区が踏襲され、秦皇島市一帯は 營州(州都は柳城県城)と 平州(州都は盧龍県城)に分かれて統括された。下地図。
925年、それまで後唐の領土下にあった營州と平州の一帯を、契丹(遼)が占領する。
この遼朝の治世下、戴河の西側一帯は南京道に帰属された。盧龍県城(平州の州都を兼務。今の 秦皇島市盧龍県)に、新設された遼興軍役所が併設されている。
一方で、広寧県城(今の 秦皇島市昌黎県)に營州役所と 邻海軍役所が移転される(平州に帰属)。
同時に、望都県(今の 秦皇島市盧龍県の南側)が新設される(平州に帰属)。
このとき、現在の秦皇島市撫寧県は、新安鎮と呼称されていた(平州に帰属)。
一方で、戴河より東側および長城より北側は、中京道の管轄下に配される。
山海関には遷州と遷民県、興善軍役所が併設され、海陽県城(今の 撫寧県海陽鎮)には、潤州と海陽軍の役所が併設された。
女真族の金国が遼朝を滅ぼすと、今の秦皇島市一帯も金国の版図下に組み込まれる。上地図。
盧龍県城には引き続き、平州(中都路に所属)と興平軍の役所が設置された。 1189年には、広寧県が 昌黎県(下絵図は清代のもの)へ改称され、また同時に、新安鎮が 撫寧県(今の撫寧県の旧市街地)へ昇格される。
遼朝により新設されていた望都県(1167年に海山県へ改称)はそのまま踏襲される。
また、一方で 海陽県城(今の 撫寧県海陽鎮)や 遷民鎮(山海関より改名)が統括した、戴河の東側および長城より北側一帯は、北京路瑞州に所属するものとされた。
元代、戴河の西側一帯は中書省下の平州となり、1215年には平州興平軍が興平府へ改名される。
1260年には興平府はさらに平滦路へ昇格されるも、1300年、大洪水の被災復興を祈念して、平滦路は永平路へ改称される。同時に、永平路城(盧龍県城)に大幅な修繕が加えられることとなる。
また 1265年、撫寧県(今の 秦皇島市撫寧県中心部。上絵図)と 海山県(旧海山県城跡に復活設置)が廃止され、昌黎県(今の 秦皇島市昌黎県中心部)へ吸収合併されるも、翌 1266年には逆に、昌黎県が廃止され、撫寧県と海山県が再設置されることとなる。
その後も、度々、廃止・復活が繰り返され、最終的に撫寧県と昌黎県(上絵図)のみ存続されることとなった。
また、このころ、現在の秦皇島市海陽鎮には大寧海陽千戸所が開設されており、その北部は盧山県の管轄域となっていた。
明代初期も、山東行省の下、永平路が継承される。1369年に平滦路へ改称され、北平行省の管轄下へ移籍される。
最終的に、1371年に永平府(盧龍県城が兼務)へ改名される。府下には、盧龍県(今の 秦皇島市盧龍県)、昌黎県(今の 秦皇島市昌黎県)、撫寧県(今の 秦皇島市撫寧県)などが配された(上地図)。当時の県役所の位置や管轄域は、現在の秦皇島市の概況とほぼ位置するという。
なお、撫寧県の管轄区に関しては、東は山海関の外側から、北は青龍満州族自治県の南部一帯にまで及ぶものであった。
同じく 1371年、永平府の南側に永平衛が、山海関に山海衛が新設される。この衛所とは、県城とは別の簡易な軍事要塞を意味する。
同時期、山海関の長城が改修され(下絵図)、その防衛力強化が図られる。ここに、秦皇島市エリアと中国東北部との交通上の分断が生じる形となったものの、当地の生活文化は引き続き、東北部・遼西文化圏に組された。
さらに 1403年、撫寧県城の北側に撫寧衛が、永平府の北東側に東勝左衛が新設される。東勝左衛は後に、永平府の南部に新設された盧龍衛に吸収合併されるも、その盧龍衛も最終的には永平衛に編入されることとなる。
1569年、再び燕河營路、台頭營路、石門寨路、山海関路が再設置され、薊州総兵の管轄下に配された。衛制から路制へ名称が変更されている。
清代に入ると、秦皇島市エリアは直隷省通永道下の 永平府(盧龍県城。下絵図)として踏襲され、配下の盧龍県、昌黎県、撫寧県などがそのまま継承された。
1737年、山海関の役所が臨榆県城内に移転され、撫寧深河より東側の土地は臨榆県の管轄下へ再編される。こうして、現在の青龍満州族自治県の東部は臨榆県下に、中部は撫寧県に、西部は遷安県の監督を受けることとなった。
清代初期には、山海関に山海関副都統が設置され、明代からの山海衛や撫寧衛もそのまま継承されるも、 1644年に山海関副都統が山海関鎮総兵が改編され、その支部が山海関路、石門寨路、燕河營路の各要衝に配されることとなる。
海岸線防衛の必要性が薄れる中、1650年、撫寧衛が廃止され、山海衛に吸収合併される。最終的に 1737年、山海衛も廃止されるに至る。
清朝も末期となった 1898年、鑛務大臣の張翼奏が盧龍県城外に近代的な埠頭施設を建設する。ここから秦皇島市の経済発展がスタートすることとなった。
1912年に中華民国が成立すると、盧龍県が廃止され、永平府、及び 昌黎県、撫寧県、臨榆県などはそのまま存続される。しかし 1914年、盧龍県が再設置され、 逆に永平府が廃止される。盧龍県、昌黎県、撫寧県、臨榆県はすべて直隷省津海道に所属された。
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