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清遠市
訪問日:20--年-月-旬 『大陸西遊記』~
広東省 清遠市 ~ 人口 451万人、 一人当たり GDP 46,000 元
➠➠➠ 清遠市内の 城跡リスト ➠➠➠
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清遠県城(中宿県城)
【 清遠市の 歴史 】
春秋戦国時代、清遠市域は百粤の地に分類されていた。
中原を統一した秦朝により、紀元前 214年に嶺南地方も武力併合されると、その翌年、中央集権体制の導入が図られ、この華南一帯にも郡県制が敷かれる。このとき、今の清遠市一帯は 南海郡と長沙郡に分かれて帰属された。
その秦朝も間もなく滅亡し、中原が戦乱となると、嶺南地方全域は趙佗により建国された南越国の版図下に組み込まれる。現在の清遠市域の南部を含んでいた南海郡もここに属した。
一方、中原での楚漢戦争を制した劉邦により前漢王朝が建国されると、長沙郡の南部が分離され、桂陽郡が新設される。その桂陽郡の下には 桂陽県(今の 連州一帯)、陰山県、湞陽県(今の 清遠市英徳の一部)、含匡県(同じく、現在の 清遠市英徳の一部)が配された。現在の清遠市北部一帯もここに帰属され、ちょうど南北に分離する国境線上に位置していたことになる。
第 7代目皇帝・武帝は、紀元前 111年、遠征軍を派遣して、南越国を滅ぼし、この地を交州として、新たに 9郡を設置する。その際、中宿県(域内にあった中宿峡から命名。後に清遠市中心部となる)が新設され、南海郡に帰属された。
三国時代においては、呉の領土下にあった。265年、荊州桂陽郡の南部が分離され、始興郡が新設される。清遠市域の各県はすべて始興郡の下に入った。
南北朝時代の宋朝の治世下の 472年、始興郡は広興郡へ改称される。続く、斉朝治世下の 479年、再び、始興郡へ戻される。中宿県は引き続き、ここに帰属された。
同じく、南北朝時代の梁朝の治世下(502~549年)、清遠郡が新設される(今日の市名の由来となる)。清遠郡は 中宿県、威正県、平県、恩洽県、浮護県の 5県を管轄することとされた。同時に、陰山郡も新設され、陰山県、桂陽県、広徳県(後に広澤県や連山県へ改名される)、及び 衡州(今の含匡)を統括した。
陳王朝の時代には、清遠郡は西衡州の下に置かれた。
南北朝時代を統一した隋朝初期の 590年、清遠郡および、その管轄下の中宿県などがすべて廃止され、新たに 清遠県(もともとの中宿県城を継承する)と 政賓県(今の 清新県濱江一帯)が新設される。両者は南海郡の管轄下に配された。また同時に、陰山郡は連州へ、衡州は 匡州(600年に廃止され、広州府に編入)へ改名される。
唐代の 623年、政賓県が廃止され、その行政区は清遠県へ吸収される。広州都督府下に帰属された。以後、清末まで清遠県は広州府(路)に帰属し続けることとなる。 742年、連州が連山郡へ改名される。
五代十国時代の南漢朝の治世下の 921年、湞陽県城(今の 清遠市英德の旧市街地)内に英州が設置される。
北宋時代の 1120年、英州は真陽郡へ、含匡は光県へ、湞陽は真陽県へと改称される。 1195年、真陽郡が英徳府へと昇格される。
元朝時代の 1278年、英徳府は英徳路総管府へ改名されるも、間もなく、英徳州へと降格され、含光県と真陽県が編入された。
明代の 1369年、英徳州は英徳県へと変更される。韶州府の管轄下に置かれた。 1381年、連州と陰山、連山の2県は広州府の管轄下へ移籍される。下地図。
清代もそのまま明代の行政区が踏襲される。
清代中期の 1727年、連州は広東省直隷州となり、陰山県と連山県の 2県を統括することとされた。
1813年、清遠県と英徳県からそれぞれ分離され、その中間地点に 広東布政司佛岡軍民庁(県役所レベルに相当、略称:佛岡庁)が新設される。これが今の 清遠市佛岡県の旧市街地にあたる。上地図。
中華民国が建国された 1912年、連州は連県へ改名され、同時にまた、佛岡軍民庁も佛岡県へ改称される。
1988年に清遠県が廃止される。同時に、市制が開始され、現在に至る。清遠市は、その市全体の形が鳳凰の姿に似ていることから、鳳城とも別称される。
なお、現在の清遠市旧市街地を形成していた 清遠県城(前漢時代の中宿県城に由来)跡であるが、現在、その城壁や城門などの遺跡は完全に撤去されており、跡形もないわけであるが、旧市街から続く路地や地名には、かつての記憶がはっきりと刻み込まれていた。北門街、南門街、学官街、環城一路、下濠路(かつての堀川跡)、城北路、城中路、西門塘真街、西門塘横街、東門塘など。
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