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茂名市
訪問日:20--年-月-旬 『大陸西遊記』~
広東省 茂名市 ~ 人口 765万人、 一人当たり GDP 33,000 元
➠➠➠ 茂名市内の 城跡リスト ➠➠➠
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茂名県城(高州府城、高凉郡城)
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電白郡城
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海昌郡城
【 茂名市の歴史 】
夏王朝、商王朝、周王朝から春秋戦国時代の終わりまで、茂名市一帯は百越の地に分類されていた。
秦朝により紀元前 214年に嶺南地方も武力併合され、翌年、南海郡、象郡、桂林郡の 3郡が設置される。 その際、桂林郡と象郡に分かれて管轄されることとなる。
秦滅亡後、嶺南地方で建国された南越国の版図下に組み込まれる。
南越国を滅ぼした前後漢王朝の統治下では、茂名市域は蒼梧郡端溪県と 合浦郡高凉県に分かれて帰属された。
後漢朝時代の 147年、合浦郡から分離されて 高興郡(168年、高凉郡へと改名)が新設される。
呉の領土となった後の 220年、高凉県(現在の陽江市)が分離されて、同じく高凉郡下として 思平県(今の
江門市
恩平) が新設され、そのまま高凉郡役所も思平県城内へ移転される。 あわせて、高興郡が再設置され、広化県城内(今の
陽江市
陽西県)に郡役所が開設された。これらは広州に帰属された。
280年に呉が西晋に降伏することで三国時代も終焉を迎える。 西晋王朝は高凉郡と高興郡をそのまま継承するも、後に高興郡が廃止され、高凉郡に吸収合併されることになる。
南北朝時代から、隋代、唐代、そして五代十国時代を経て北宋代にかけて、 茂名市域の大部分は高凉郡に帰属される。当時の高凉郡は 思平県(今の 江門市恩平)、安寧県(今の陽江)、莫陽県(今の陽春)、羅州県(今の化州)、西鞏県(今の陽春)、平定県、禽郷県の 7県を統括していた。
南北朝時代の梁朝統治下の 528年、高州が新設され、州役所は今の陽西県に開設された。 また、530年には高州下に 電白郡(郡役所は今の 高州長坡旧城に開設)が新設される。 こうして、市域の西南部は羅州高興郡に、北部は瀧州梁徳郡に、中部及び東部は高州電白郡と海昌郡に、 南部は高州南巴郡に帰属されることとなる。
隋代の 589年、電白郡と海昌郡が廃止され、電白県となる。また、連江郡と南巴郡が廃止され、連江県と南巴県となる。 高州役所は 高凉県城(今の陽江西部)に開設され、これらを管轄することされる。 さらに翌 590年、高興郡が廃止され 石龍県、呉川県、茂名県(今の
茂名市
高州の旧市街地)の 3県が設置される。これらは羅州に帰属された。 すなわち、現在の茂名市域の中部と東部は電白県に、南部は南巴県に、西部は茂名県に、北部は良徳県にそれぞれ 管轄されることとなる。
隋朝 2代目皇帝・煬帝の治世下であった 607年、高州と羅州が廃止され、高凉郡が復活する(郡役所は 高凉県城 ー 今の陽江西)。 電白県、南巴県、茂名県の 3県を統括することとされる。 また、瀧州は永熙郡へ改名され、良徳県を管轄することとなる。
唐代初期には高州に帰属する。 一方、現在の茂名市西部、すなわち広西省の東端一帯に、621年、南宕州(州役所は南昌県城 ー 今の 博白県旧県社、後に
玉林市
玉州区へ移転)が新設される。 この南宕州が、634年、潘州へ改名され、その下に 茂名県(県役所は今の 茂名市高州に開設)が追加される。 そのまま茂名県城へ潘州役所が移転される。 なお、潘州の命名であるが、道教僧の 潘茂名(290年~371年)の名から取られており、 中国全土の中でも、道教僧の姓を州名に転用された例は、この潘茂名が唯一とされる。 しかし、643年に潘州は廃止される(650年ごろに、再設置される)。 648年、高州役所は 高凉県城(今の陽江西部)から良徳県城へ移転する。 742年、高州は高凉郡へ、潘州は 南潘郡(758年に潘州へ戻される)へ改名される。 潘州は引き続き、茂名県、潘水県、南巴県の 3県を管轄することとなる。
五代十国時代、南漢国に帰属された。
北宋時代の 972年、南巴県と潘水県の 2県が茂名県に吸収合併される。窦州と潘州もまた、高州(後に高凉郡へ改名)に併合される。また、辯州は化州へ、信義県は信宜県へと改名される。これらはすべて広南西路の行政区に属された。
元朝時代の 1278年、高州路安托司と化州路安托司へと改編される。1282年、総管府が湖広行中書省へ改編される。
明代、高州路と化州路が府制度へ変更される。しかし、1374年、化州府は化州へ、さらに 2年後には化州県へと降格される。 1381年に再び、化州へと昇格され、呉川県(今の
湛江市
呉川と坡頭区を含む)と 石龍県(今の 湛江市廉江)、信宜県、電白県、茂名県を統括することとされる。なお、茂名県に関しては、高州府にも帰属しており、二重にだぶることとなる。
清朝時代、原則的には明代の行政区が継承される。高州府(府役所は茂名県城に開設)は広東省内で唯一、一州(化州)と 五県(茂名、電白、信宜、呉川、石龍)を管轄する行政庁となっていた。 その行政区は広大で、かつ重要な戦略要衝でもあったことから、当時、高州府は広東省下にある四府の筆頭、 とまで別称されていたほどである。
現在の市制は1959年から開始されている。
なお、茂名市の 中心部(茂南区)は近代以降に開発された都市であるため、遺跡は存在していない。
この地域の中心的な古都は、この市街区から北へ 30 kmにある茂名市高州の旧市街地にあった。ここが、かつてより茂名県城と呼ばれた地で、高州府城(高凉郡城)を長く兼務してきた。その城郭も今では完全に取り払われて、跡形もないわけであるが、かつての記憶ははっきりと路地に刻みこまれていた。府前路、環城西路、環城東路、南関路、高州市東門市場、東門嶺、城西市場、北関街など。
他にも、海岸沿いの茂名市電白区電城鎮の旧市街地にも、城郭都市があった。ただし、今日では路地名にのみ、その記憶が感じられるだけである。北街、南街、城南総合市場、城関村、南門頭小学、電白塩場路(かつて塩田があった名残り)など。
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