以後も、アヘン取扱い量は増加の一途をたどり、司打口と 倉庫(公栈)の敷地面積は限界となっており、また、この界隈は狭苦しい路地と薄汚い小屋がひしめき合って衛生環境は劣悪を極めていた。
1866年当時、マカオ総督に着任したばかりだったオルタは、この司打口の港湾地区の大改修に乗り出す。
司打口のふ頭は周囲に建物が立ち並び過ぎ、また、湾岸下の土砂堆積もあって、船着き場としての機能も失われつつあったため、旧ふ頭の埋め立てが決行される。海岸線が西へ延伸され、新しい港湾ふ頭が建設されたのだった。ちょうど、現在の比厘喇馬忌士街の大豊倉がある場所と、南舢舨船着き場の中間地点の空き地部分がこれに相当した。
そして、旧ふ頭の埋め立て工事で誕生した広場は、1869年7月26日、工事を手掛けたオルタ提督の功績をたたえて 柯邦迪前地(Praça
de Ponte e Horta)と命名されることとなる。