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馬鞍山市
訪問日:20--年-月-旬 『大陸西遊記』~
安徽省 馬鞍山市 ~ 人口 240万人、 一人当たり GDP 95,000 元
➠➠➠ 馬鞍山市内の 城跡リスト ➠➠➠
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【二代目】当涂県城(姑孰城、太平州城、太平路城、太平府城)
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丹陽県城
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牛渚県城(採石県城、南丹陽郡城)
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霸王祠(四面楚歌を経て、烏江の渡しまで逃げ延びた項羽が、最期を遂げた場所)
【 馬鞍山市の歴史 】
現在の馬鞍山市エリアは、西周時代には呉国に属し、春秋戦国時代には越国と楚国の勢力圏に組み込まれていた。
秦代~西晋時代には、丹陽県(県城は、今の馬鞍山市当涂県丹陽鎮に開設)が設置されていた。
東晋時代の 329年、淮河沿いにあった当涂県(今の
安徽省蚌埠市
懐遠県)から多くの流民が南へと逃がれてくると、今の
安徽省蕪湖市
南陵県に【初代】当涂県が新設される。これは、江南地方において、初めて当涂県という名称が使用された瞬間であったが、しかし、具体的な場所等は未だに特定されていない。
引き続き、華北地方からの流民はますます増加し、急増した住民を監督すべく、長江や淮河沿いに、次々に県役所が開設されていく。この一環で、345年、牛渚県(県城は、今の馬鞍山市雨山区採石村に開設)が新設される。下地図。
南朝の梁王朝の治世下の 502年、丹陽郡が分離され南丹陽郡が新設されると、この採石県城が郡都を兼務した。
隋代初期の 589年、今の
安徽省蕪湖市
南陵県に開設されていた当涂県役所が、姑孰鎮城(今の馬鞍山市当涂県姑孰鎮城関鎮にある旧市街地)へ移転される。これ以降、姑孰鎮城が【二代目】当涂県城として君臨し、今日まで継承されるわけである。
北宋時代初期の 977年、太平州が新設されると、この 姑孰城(【二代目】当涂県城)が州都を兼務し、当涂県、蕪湖県、繁昌県の三県を統括した。下地図。
元代には、太平州が太平路へ改編される。
1355年、朱元璋が武装蜂起し、太平路城(【二代目】当涂県城)を攻略する。直後に、太平路は太平府へ改編される。下部の諸県はそのまま継承されることとなった。
以後、明代、清代も、このままの行政区が維持される。
中華民国が建国されると、1912年、全国で府制が廃止されると、太平府は消滅し、当涂県、蕪湖県、繁昌県の三県は、安徽省の直轄とされた。
なお、この地名「馬鞍山市」の由来であるが、伝説によると、楚漢戦争末期の紀元前 202年12月、楚の 霸王・項羽(紀元前 232~前 202年)が垓下で包囲され、四面楚歌に晒された後に逃走し、今の馬鞍山市和県烏江鎮にあった「烏江の渡し」まで落ち延びると、漁師に愛馬を譲る代わりに、対岸まで船で送ってほしいと依頼する。しかし、江東地方に生還できたとしても、仲間や部下たちに合わせる顔がないと思い至って、愛馬のみ船に乗せ、自らは戦場で自刃することとなった(その地には現在、霸王祠が建立されている)。着岸後、項羽の愛馬は主人を思って、自ら山より落ち、命を絶ったという。その乗せていた馬の鞍が見つかった山にちなみ、馬鞍山と命名され、それが後世に地名となって定着した、というわけである。
また、別の意見では、地形が馬の鞍の形に似ていたことから地名化された、とも指摘される。
馬鞍山に関する最も古い指摘は、明代に記された『太平府志・輿地志』で、太平府城の北西にあった慈湖港口に、馬鞍山が立地していた、という一文であった。かつて、その山上には、三国時代の 239年建立の神祠が設けられていたという。
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