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呂梁市
訪問日:20--年-月-旬 『大陸西遊記』~
山西省 呂梁市 ~ 人口 380万人、 一人当たり GDP 24,000 元
➠➠➠ 呂梁市の 城跡リスト ➠➠➠
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中陽県城
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大陵県城(平陵県城、大寧県城、受陽県城)
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吐京県城(吐京鎮城、吐京郡城)
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平陶県城(多穰県城、平遥県城)
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平周県城
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皋狼県城
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茲氏県城(瓜衍県城、茲同県城、西河郡城、隰城県城、南朔州城、介州城、西河県城、汾陽県城、汾州府城)
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藺県城
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皋狼県城
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中陽県城
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離石県城(西河郡城、離石鎮城、懷政郡城)
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土軍県城
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臨水県城(監水県城)
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蒲子県城
【 呂梁市の 歴史 】
春秋時代期には、呂梁市一帯は晋国の版図下に組み込まれ、屈邑、平陵邑、中陽邑や瓜衍県などの城塞都市が設置されていた。
紀元前 376年、晋国から韓、趙、魏の三国が分離・独立すると、呂梁市一帯は趙国の領土下に組み込まれる。下地図。
秦の庄襄王が紀元前 246年に白起を派遣し、この地域一帯を占領すると、すぐに太原郡が新設される(下地図)。当時、呂梁市域内に開設されていた 中陽県、茲氏県(瓜衍県より改称。今の 呂梁市下の汾陽市と孝義市一帯)、大陵県(平陵県より改称。今の 呂梁市文水県)などは全て、この太原郡の管轄下に置かれた。
前漢時代の初期、引き続き、呂梁市エリアは太原郡に帰属した。
紀元前 125年、匈奴征伐を進める武帝は、占領地の統治体制を強化すべく、太原郡から西河郡を分離・新設する。このとき、呂梁市エリアは 西河郡、太原郡、平陽郡の 3郡に分かれて監督される。下地図。
すなわち、大陵県、平陶県(今の 呂梁市文水県平陶村)、茲氏県は太原郡下に、藺県、皋狼県、中陽県、離石県(郡都を兼務)、土軍県、隰県、臨水県は西河郡下に、蒲子県は平陽郡下に配された。
王莽により新王朝が建国された時期には、茲氏県は茲同県へ、大陵県は大寧県へ、平陶県は多穰県へ、臨水県は監水県へ改称されるも、25年に後漢朝が再建されると、すぐに元の名称へ戻されている。
後漢時代の初期には、離石県、藺県、皋狼県、臨水県、中陽県、平周県が西河郡下に、大陵県、平陶県、茲氏県が太原郡下に、蒲子県が河東郡下に管轄された。
後漢中期ごろには匈奴の南下が進み、漢族の土地が次々と奪われて、放牧地へ転換されていく。
ついに 140年9月、西河郡の郡役所も南へ 300 km移転されるに至る(離石県城内に転入)。これが皮肉にも、呂梁市内での最初の郡役所の開設となった。
同年、臨水県が廃止され、離石県に編入される。
後漢末期の 180年代後半には、北にあった 美稷県役所(今の 内モンゴル自治区オルドス市准格爾旗納林郷。前漢時代の紀元前 125年、武帝の匈奴遠征時の占領地に開設されていた)も南へ移転され、茲氏県城内に再設置されるも、間もなく、美稷県自体が廃止される。
後漢末期の 218年、南匈奴が移住を進め、左部族が茲氏県一帯に、中部族らが大陵県一帯に割拠するようになる。
三国時代期、呂梁市一帯は魏領に帰属する。
221年には 西河郡(郡役所は茲氏県城内に開設)が新設され、離石県や中陽県などの諸県を統括した。 一方で、大陵県と平陶県の 2県は太原郡に、蒲子県は平陽郡下に帰属された。
西晋時代、呂梁市エリアは西河国と太原国の管轄下に置かれた。このとき、茲氏県(今の汾陽市)が隰城県へ改称されている(そのまま西河国に帰属)。
五胡十六国時代には、呂梁市一帯は度々、戦火に巻き込まれることとなった。上地図。
後趙の治世下の 319年、荒廃した離石県を再建すべく 永石郡(後に西河郡に改称)が新設される。
後燕の時代には、離石護軍へ改編された。後に西河郡が廃止され、太原郡に吸収合併されることとなる。
北魏朝の初期、呂梁市一帯は太原郡に帰属し、その下に大陵県、平陶県、茲氏県などが配されていた。後に、離石鎮も新設されている。
434年に吐京鎮が、448年には吐京鎮の下に嶺東県と嶺西県の 2県が新設される。
また平陶県の地名が、北魏第 3代目皇帝の拓拔焘の忌み名にダブるということで、平遥県へ改称される。また同時期、大陵県が受陽県へ変更されている。
484年には西河郡が復活設置され、486年には吐京鎮が吐京郡へ昇格される(上地図)。同年、蒲子県が廃止され、汾州が新設される。その下に、吐京郡や西河郡などの 5郡が配された。
493年には永安県が新設される。
497年、嶺東県が新城県へ、嶺西県が吐京県へ改称される。
東魏朝の時代、呂梁市一帯は汾州と太原郡に分かれて帰属された(下地図)。汾州下には、西河郡(隰城県と永安県を統括)や 吐京郡(吐京県と新城県)などが置かれる。
受陽県は太原郡に、離石一帯は離石鎮に帰属された。
北斉朝と北周朝の統治時代、呂梁市一帯は両国の係争地となり、北斉朝の丞相であった斛律金が長城を築城した際(552年)、その起点となった 地点「金鎖関(市内の黄櫨嶺の山頂)」が今も史跡として保存されている。
この時代、呂梁市エリアには、西汾州懷政郡、南朔州西河郡、吐京郡、神武郡と并州太原都に分かれて統括されていた(下地図)。 なお、南朔州は汾州より改名されており、その州役所は隰城県城内に併設された。西河郡もここに帰属される。
離石鎮は懷政郡へ改名されており、昌化県や良泉県などを統括した。蔚汾県は神武郡に、受陽県は太原郡に、吐京県と新城県は吐京郡に属された。
北周朝の治世下の 570年代、西汾州は石州へ改称され、580年には南朔州が介州へ変更されている。あわせて、定胡県、窟胡県、烏突県の 3県が新設されることとなる。
南北朝時代を統一した隋代、呂梁市一帯は、離石郡、西河郡、太原郡、楼煩郡、龍泉郡に分かれて統括された。下地図。
すなわち、離石県(郡都を兼務)、修化県(窟胡県から改名)、太和県(烏突県から改名)、平夷県、定胡県(今の 呂梁市柳林県孟門鎮)、寧郷県などが離石郡に、隰城県(郡都を兼務)と永安県は西河郡に、受陽県は太原郡に、嵐城県は楼煩郡に、石楼県は龍泉郡に帰属された。
唐代から五代十国時代にかけて、呂梁市エリアは、石州、汾州、隰州、嵐州、并州(後に太原府へ改編)に分かれて帰属された。
すなわち、西河県(隰城県から改称)、孝義県(永安県から改称)の 2県は汾州に、離石県、平夷県、定胡県(今の 呂梁市柳林県孟門鎮)、臨泉県、方山県は石州に、宜芳県と合河県の 2県は嵐州に、石楼県と温泉県の 2県は隰州に、交城県(新たに設置された)と 文水県は并州(太原府)に属した。
上地図は、宋軍が北漢国を攻め滅ぼす進軍ルートを示す。汾州城(西河県城)も攻略された。
宋代に入ると、呂梁市エリアは、石州、汾州、嵐州、隰州、晋寧軍、太原府の管轄下に置かれる。
すなわち、離石県、平夷県、方山県は石州下に、西河県と孝義県は汾州下に、宜芳県と合河県は嵐州下に、石楼県と温泉県は隰州下に、定胡県(今の 呂梁市柳林県孟門鎮)と 臨泉県は晋寧軍下に、交城県と文水県は太原府にそれぞれ所属する。
金代、晋寧軍が廃止され、その行政区が石州に吸収合併されるも、その他の区割りは宋代のものが踏襲された。
元代、呂梁市の大部分は 太原路(後に冀寧路へ改編)に統括され、交城県、文水県、興州、嵐州、臨州、石州(離石県と寧郷県を管轄)、汾州(西河県と孝義県を管轄)が配された。石楼県は晋寧路の監督下に置かれる。下地図。
明代初期、呂梁市エリアでは石楼県が隰州に所属した以外、すべて太原府の管轄下に組み込まれる。有興県、嵐県、臨県、交城県、文水県、石州(寧郷県を統括)、汾州(孝義県を統括)などが設置されていた。
明朝末期の 1595年5月、汾州が汾州府へ昇格され、同時に 西河県城(隰城県城)が 汾陽県(引き続き、州都を兼務)へ改称される。もともとの太原府下の臨県、永寧州(1569年に石州へ改称)、寧郷県と汾州府下の諸県を統括することとされた。
1612年には石楼県が汾州府の管轄下に組み込まれる。上地図は、明末の農民反乱軍の進軍ルートを示す。
清代に入っても、明代の行政区がそのまま踏襲された。
中華民国が建国された直後の 1912年、汾州府が廃止され、永寧州は永寧県へ降格される。1914年1月には、永寧県は離石県へ、寧郷県は中陽県へ改名された。 1918年には、方山県が新設されている。
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