BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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安徽省 六安市 ~ 人口 490万人、 一人当たり GDP 36,000 元


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  六県城(六安城、称皋城、九江国王都、六安県城、六安軍城、六安州城)
  安風県城(安豊郡城、安豊県城)
  雲類県城
  博郷県城
  舒県城(廬江郡城)
  霍邱県城(安豊州城、安豊郡城)
  霍山県城(盛唐県城、岳安県城、岳安郡城、霍州城)



【 六安市の 歴史 】

六安市の歴史は悠久で、古代中国の伝説上の 人物・皋陶(夏王朝の高級官吏。紀元前 2220~前 2113年)の末裔が、英の 地(現在の 六安市西部)と、六の地(現在の 六安市北部)に封じられたと伝承されており、彼が開設した王都は六安城、もしくは称皋城と称されることとなる。

西周時代~春秋時代にかけて、各地で諸侯国家が乱立され、次第に武力衝突が頻発するようになる。現在の六安市一帯でも、英国、六国、舒蓼国、舒鳩国、舒庸国などの侯国がひしめき合っており(下地図)、春秋戦国時代を経て、諸侯は死闘を繰り返し、最終的に呉国と楚国の勢力圏にまとめ上げられていくのだった。

六安市

秦国の国威がますます強勢となる中、春申君(?~紀元前 238年)が宰相となり楚国の体制回復を図っていた紀元前 241年、楚国の王都を 寿春(今の 安徽省淮南市 寿県)へ遷都させ、郢と命名する。以降、秦国に滅ぼされるまで(紀元前 223年)、楚国の王都として栄えた。

秦の始皇帝により中原が統一されると(紀元前 221年)、全国に郡県制が導入される。現在の六安市の南半分は、衡山郡(郡都は、邾県城ー今の 湖北省黄岡市 にある北禹王城遺跡)に属し、北半分は、九江郡(郡都は寿春県城)下の 六県(今の六安市裕安区古城村)、寿春県、安豊県の 3県に分かれて統括された。下地図。

六安市

秦王朝を滅亡させた直後の紀元前 206年、項羽は、自身の忠臣として活躍した 英布(?~紀元前 196年。別名:黥布。六県出身)を、九江王に封じる。英布は故郷の 六県城(今の 六安市裕安区古城村)を王都に定め、九江国を率いた。しかし、劉邦が挙兵し、項羽と中原で激突すると、紀元前 204年、項羽と反目しつつあった英布は劉邦方に組し、項羽を裏切る。こうして勝利した劉邦により、前漢王朝が建国されるのだった。
この時、対項羽戦で協力した英布は淮南王に封じられ、引き続き、王都は六県城に構えることとなる。この時、現在の六安市の東半分はこの淮南国に、西半部が衡山国に属していた。

紀元前 196年、功臣の粛清を進める劉邦に対し、不信を募らせた英布が挙兵に追い込まれると、前漢軍と軍事衝突する。最終的に、英布も敗死し、劉邦は自身の第 7子・劉長を淮南王に封じる。直後に、王都は六県城から 寿春県城(今の 安徽省淮南市 寿県)へ移転されることとなった。

前漢朝 5代目皇帝・文帝(劉邦の第 5子)の治世下、唯我独尊の態度をとる劉長の言動が朝廷内で問題視され、四川省へ配流される(劉長は断食して、道中に餓死した)。これを不憫に思った文帝により、劉長の子である 劉安、劉勃、劉賜ら 3人が、それぞれ 淮南国王、衡山国王、廬江国王に封じられる(紀元前 164年。下地図)。これは、元々の淮南国を三分割する形となり、現在の六安市域は引き続き、東半分は淮南国に、西半部が衡山国に分かれて統括された。下地図。

六安市

紀元前 121年、匈奴遠征のための徴兵に非協力で謀反の疑いをかけられた、 淮南王の劉安と衡山王の劉賜が、7代目皇帝・武帝の命により自刃させられる。
同時に、衡山国が六安国へ改名される(下地図)。これは、衡山国内の 六県、安風県、安豊県の地名を寄せ詰めた造語だったという。また、「六の地は平和で、未来永劫に謀反を企てない」の意味もこめられて決定されたと言われる。現在、使用されている「六安」の地名は、この時からスタートされている。
この時代、六安国には、六県、蓼県、安風県、安豊県、陽泉県の 5県が配されていた。王都は、そのまま 六県城(今の 六安市裕安区古城村)が継承した。下地図。

廬江郡(郡都は、舒県城 ー 今の六安市廬江県の南西部)側では、潜県と龍舒県の 2県が、九江郡(郡都は寿春県城)側では、寿春県、博郷県、成徳県の 3県が配されていた。下地図。
武帝の治世下の紀元前 106年、全国が十三州に分割されると、これら三郡は揚州に属した。

六安市

後漢時代、六安国は廬江郡に吸収合併される。

三国時代には、魏国下の 淮南郡、廬江郡、安豊郡に分かれて統括された。下地図。
淮南郡(郡都は合肥城)下の寿春県と成徳県の 2県が、廬江郡(郡都は六安県城)下には 六安県、博安県、陽泉県の 3県が、安豊郡(郡都は安風県城 ー 今の六安市霍邱県河口鎮)下には 安風県、蓼県、安豊県、雲類県などの諸県により、分割統治されていた。

六安市

西晋時代も引き続き、淮南郡(郡都は寿春県城。282年に建鄴城へ移転)下の 寿春県と成徳県の二県に、廬江郡(郡都は舒県城 ー 今の六安市舒城県)下の 六県、潜県、陽泉、舒県、龍舒県の 5県に、安豊郡(郡都は安風県城 ー 今の六安市霍邱県河口鎮)下の 安風県、松滋県、蓼県、安豊県、雲類県などに、統括されていた。上地図。

華北地方が五胡十六国時代に突入し、大混乱に直面していた頃、現在の六安市エリアは、東晋朝の領土下にあったが、その戦火のあおりを度々受けており、治安は悪化していた。このため、淮河から長江エリアの住民は流民と化して長江以南へ逃避していくこととなる。このため、県城数も大幅に減少することとなった。引き続き、現在の六安市域の周辺は 3郡が維持されていたが、それぞれ、淮南郡(郡都は寿春県城)下では寿春県のみが、廬江郡(郡都は、舒県城)下の舒県のみが、義陽郡(郡都は、弋陽県城 ー 今の 河南省信陽市 光山県)の弋陽県のみが、存続するのみであったという。これら 3郡は、引き続き、揚州(州都は建康城 ー 今の 江蘇省南京市)に属した。

六安市

南北朝時代を通じ、大部分の時間は南朝方の勢力圏下にあった、今日の六安市エリアであるが、東晋王朝を継承した劉宋王朝の治世下の 464年、南豫州(州都は当涂県城ー今の 安徽省馬鞍山市 当涂県)が新設されると、これに一括で統治されることとなっていた。上地図。

斉王朝を経て続いた梁王朝の治世下の 507年、霍州が新設される。州都は 岳安郡城(今の 六安市霍山県)が兼務した。この時代、安豊郡城(今の 六安市霍邱県河口鎮)を州都とする、安豊州が設置されていた。その後、南下してきた北朝方の 北魏朝(386~534年)、東魏朝(534~550年)、北斉朝(550~577年)の支配地に組み込まれるも、南朝時代の行政区がそのまま踏襲される。

隋代初期の 581年、岳安県が霍山県へ改名され、599年には霍邱県が新設される。それぞれ、淮南郡と廬江郡に分かれて統括された。
この時代、淮南郡(郡都は寿春県城)下には、寿春県、安豊県、霍邱県が復活され、廬江郡(郡都は合肥城 ー 今の 安徽省合肥市)下には、六安県、舒城県、霍山県、淠水県、開化県の 5県が復活されていた。

唐代には、廬州と寿州とに分かれて統括された(下地図)。 735年、合肥県 と廬江県の一部が分離され、舒城県が復活設置される(廬州に帰属)。この時代、寿州下には、寿春県、霍邱県、盛唐県(735年、霍山県から一時的に改名)、安豊県などが配されていた。下地図。

六安市

北宋時代も引き続き、寿州と廬州に分かれて統括された(淮南西路に帰属)。上地図。
寿州(州都は下蔡県城ー今の 安徽省淮南市 鳳台県)下の 寿春県、安豊県、六安県、霍邱県の 4県に、廬州(州都は合肥城 ー 今の 安徽省合肥市)下の 舒城県(今の 六安市舒城県城関鎮)に、それぞれ分かれて統括された。
1118年、六安県が六安軍へ昇格されると、引き続き、淮南西路に属した。

南宋時代の 1142年、六安軍が六安県へ降格され、逆に安豊県が安豊軍へ昇格される。後に、軍役所は寿春県城へ移転される。1234~1264年の一時期、六安県が廃止されるも、復活後には六安軍へ再昇格される(引き続き、淮南西路に帰属)。

元代も引き続き、安豊路と廬州路に分かれて統括された(河南行省に帰属)。この時代、安豊路(路役所は寿春県城に併設)下には、寿春県、安豊県、霍邱県の 3県が、廬州路(路役所は、合肥城 に併設)下には、六安州、六安県、霍山県、舒城県の 4県が配されていた。

六安市

明代、鳳陽府と廬州府の南北に分かれて統括された(上地図)。鳳陽府下の 寿州(今の 安徽省淮南市 寿県)と、霍邱県(今の 六安市霍邱県城関鎮)の 2県、および、廬州府下の 六安州(六安県も六安州へ編入される)、霍山県、舒城県(今の 六安市舒城県城関鎮)が、現在の六安市一帯を分割統治していた。

清代の 1667年、安徽省が新設されると、現在の六安市域を分割統治していた、鳳陽府(寿州など)、潁州府(霍邱県など)、廬州府(六安州、霍山県、舒城県)はすべて、これに属した。1724年、六安州が直隷州へ昇格されると、霍山県のみ直轄した。
中華民国が成立すると、寿州が寿県へ、六安州が六安県へ改編され、霍邱県、舒城県、霍山県の 3県とともに、安徽省に直属する。

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