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臨高県
訪問日:20--年-月-旬 『大陸西遊記』~
海南省 臨高県 ~ 人口 55万人、一人当たり GDP 51,000 元
➠➠➠ 臨高県内の 城跡リスト ➠➠➠
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【初代】臨高県城(臨機県城、臨鶏県城)
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【二代目】臨高県城(現在の 臨高県中心部)
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臨高文廟(学宮)
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毗善県城(富羅県城。高山嶺の山麓)
【 臨高県の 歴史 】
紀元前 111年、前漢朝 7代目皇帝・武帝により、南越国が滅ぼされると、海南島(ちょうど日本の関東地方と同じ面積)を含む、華南地方が前漢朝の直轄地に組み込まれる。翌紀元前 110年、海南島内に珠崖郡と儋耳郡の 2郡が新設され、島を東西に分割して統括することとされた。現在の臨高県エリアは、後者に属する。
しかし、海南島の原住民らの武装蜂起が頻発すると、前漢朝は海南島の直接支配の放棄に追い込まれる。まず紀元前 82年夏に
儋耳郡(儋耳県城。今の 海南省儋州市三都鎮旧州村)
が、続いて紀元前 46年春に
珠崖郡(曋都県城。今の 海南省海口市瓊山区龍塘鎮)
が閉鎖せざるを得なくなるのだった。
時は下って、隋代後期の 607年、毗善県が新設される。この地名は、毗耶山(現在の高山嶺。標高 193 mで、臨高県中心部から北西へ 4 kmに位置する) の麓に、県城が位置していたことに由来するという(珠崖郡に帰属)。下地図。
唐代初期の 622年、毗善県が富羅県へ改称されるも(儋州に帰属)、同年中に廃止が決定されてしまい、代わりに、今の臨高県中心部から東へ 20 kmの海岸線沿いにあった漁村「臨鶏村」に、臨機(鶏)県が新設されることとなる。当時の地名「那虞都臨鶏村(今の 臨高県博厚鎮洋大村の東部にあった臨鶏坡。 現在は沿岸開発のため存在せず)」の名称が、そのまま援用されたという。下地図。
713年、臨機(鶏)県が、【初代】臨高県へ改称される(県下の最高峰、現在の高山嶺に由来)。
北宋時代、臨高県は瓊州に属した(下地図)。
この北宋時代、一時的に、今の 臨高県中心部の南西部へ移転された後、
南宋時代初期の 1132年、県役所が莫村(現在の 臨高県中心部)へ移転されてくる(【二代目】臨高県)
。ちょうど同じタイミングで、県教育機関(後の臨江書院)も当地に移転されることとなった。以後、900年以上にわたって、臨高県の県都として君臨していくわけである。上地図。
中華民国時代、臨高県は広東省下の 瓊崖行政公署、南区善後公署、海南特区行政公署などに統轄される。共産党時代の 1958年11月30日、臨高県と東隣の
澄邁県
が合併され、金江県が新設されるも、2年半後の 1961年5月、再分離されて今日に至る。これは、両県が全く異なる文化を有する民族構成であったためで、現在でも臨高話と澄邁話という、方言まで異なる異空間が継承されている。
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