BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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吉林省 遼源市 ~ 人口 102万人、 一人当たり GDP 41,000 元


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  西安県城(大疙瘩)
  東安県城
  龍首山城(新石器時代~高句麗時代の城塞遺跡)



【 遼源市の 歴史 】

新石器時代より古代人類の生息が確認されており、後に濊貊族や粛慎族らが跋扈する地域となっていく。この時代の石器類が市内各地で発見されているという。特に、現在の遼源市中心部の龍首山上には、この時代から環濠集落が立地していたと考えられており、山頂に本格的な軍事城塞が建造されたのは、高句麗時代であった(下地図)。

前漢朝が衛氏朝鮮を滅ぼし、夫余族らを帰順させると、現在の遼源市エリアは玄菟郡の行政区に統括される(紀元前 108年)。しかし、後漢時代、五胡十六国時代などを経て、中原王朝の支配力が低下すると、北方の夫余国や高句麗が勢力を増し、現在の遼源市一帯も、夫余国の支配下に組み込まれる。
しかし、その夫余国も、最終的に西方の勿吉族や、東方の高句麗の挟撃を受け、滅亡に追い込まれることとなる(494年)。

以降、高句麗の治世下で、中原王朝に習った郡県制が採用されていたと考えられている(下地図は 655年当時の様子)。

遼源市

最終的に、高句麗は遼東半島から中国東北地方一帯に勢力基盤を構築し、強大化していたタイミングで(上地図)、中原で隋王朝が南北朝を統一すると(589年)、両者は真向から衝突することとなった。
3度の高句麗遠征(612年、613年、614年)に失敗し、国力を疲弊させた隋朝は間もなく滅亡し(618年)、代わって同年、唐朝が建国されると、高句麗は唐朝とも対立し、ついに三度目の 遠征(644~668年)で滅亡に追い込まれる(668年)。

直後より、唐王朝の直轄支配下に組み込まれると、現在の遼源市一帯は、河北道安東都護府下の南蘇州の管轄下に置かれる。
間もなく、中国東北部の地元部族と旧高句麗の残党勢力が反乱を起こし、震国を建国すると(698年)、当初は唐朝の遠征軍を撃破するなど武装闘争を続けるも、間もなく帰順し直し、唐朝と朝貢関係を再構築する(713年)。以降、唐王朝から公認を受け渤海国へ改称されると、その統治下で、現在の遼源市東部は 長嶺府(瑕州城。今の 吉林省吉林市 樺甸市蘇密城)に、遼源市西部は 夫余府(今の 吉林省四平市 鉄東区一面城)に、それぞれ分かれて統括されることとなった。下地図。

遼源市

時は下って 907年、宗主国・唐王朝も弱体化して崩壊すると、強力な後ろ盾を失った渤海国は、 926年、西方の 契丹族(後に遼王朝を建国)の侵略を受け滅亡する。
同年、契丹族が旧渤海国領を加えて大契丹国を建国し、黄龍府城(現在の 吉林省長春市農安県の中心部) を築城すると(もともと、夫余国時代の王城跡が残っており、これを大改修した)、ここに一時的な王都を開設する。

しかし 975年、黄龍府衛の 将軍・燕頗(旧渤海国遺民の出身)が旧渤海国遺民らを動員して挙兵すると、 黄龍府都監の 張琚(契丹族出身)を殺害し、黄龍府城を占領してしまう(夫余府へ改称する)。同時に挙兵した旧渤海国遺民らが建国した兀惹国や定安国とも連携し、2か月もの間、勢力を拡大し続けることとなる。
最終的に遼朝の討伐軍に敗れ、黄龍府城(夫余府城)も落城すると、城内は大いに荒廃したという。反乱軍側についた黄龍府城内の住民らは南へ連行され、新たに築城される 通州城(今の 遼寧省鉄嶺市 昌図県四面城鎮の四面城跡。下地図)の現場で、強制労働に従事させられるのだった。その後、旧渤海国遺民の反乱軍は北へ東へと転戦しつつ、 996年まで継続することとなる。

遼源市

こうした反乱に直面しつつ、遼王朝は唐朝の行政制度を導入していた旧渤海国の諸制度を継承し、中国東北部の支配を確立していくわけである。この時代、現在の遼源市エリアは東京道長嶺府に統括され、この下の 山城鎮(今の 吉林省通化市 梅河口市)の行政区に属した。上地図。

その遼国も 1125年、金王朝と北宋朝に挟撃され滅亡に追い込まれると、金王朝の治世下で咸平路に統括される。

続く元王朝の時代には、遼陽行省開元路咸平府下の斡磐千戸所に属した(下地図)。

遼源市

明代に至ると、当初は 遼都衛(後に遼東都指揮使司へ改編)に、後に奴児干都司に統轄される(1411年開設)。この時代、現在の遼源市一帯は、1406年に新設された 三万衛(後に塔魯木衛、吉河衛へ改編。下地図)が直接、統治していた。ただし、各衛所の役人は、すべて地元部族や族長らが担っており、実質的に伝統的な地場部族社会を追認する形での、間接支配体制であった。

しかし、明朝の東北支配も長くは続かず、1449年の土木堡の変以降、北方のモンゴル族が勢力を回復し、東北地方にも勢力を伸ばしたことから、明朝の支配力が低下していく。これと反比例して、東北地方南部では旧金王朝の末裔である女真族が台頭することとなり、「遼東の辺境の地」とみなされた中国東北地方で「部族戦国時代」がスタートするわけである。

遼源市

この群雄割拠の中、建州女真系の五大部族を統一した、建州女真系完顔族の族長 ヌルハチ(1559~1626年)が頭角を現すと、東の海西女真系哈達部族まで併合し、東方地方の南部一帯の制覇に成功する(1589年)。以降、明朝の間接支配から脱却し、後金朝を建国するに至る(1616年)。危機感を持った明朝は、葉赫部族を後押しして後金朝に対抗するも、1619年に屈服されてしまうと、引きつづき、中国東北地方への介入を試みたため、後金朝は遼東地方の明領へ侵攻することとなった(下地図)。
その後も明軍を圧倒したヌルハチ率いる後金軍であったが、1626年、ポルトガル製の大砲をそろえた明軍を前に、山海関の戦いで戦死に追い込まれる。

最終的に、その子 ホンタイジ、フリンの代を経て、王都・北京 を占領し、中原王朝として清王朝が建国されていくわけである(1644年)。

遼源市

以降、女真族(満州族)の故郷である中国東北部は、漢民族やモンゴル族らの流入が禁止され、満州族専用の土地と定められる。また、各地に 大囲場(皇族専用の狩猟場。下地図)も設けられる中、1700年ごろ、現在の遼源市一帯も「盛京囲場」に組み込まれ、広大な未開拓地として放置されることとなった。

時は下って 1898年、福州将軍&閩浙総督から盛京将軍へ転任直後の 曾祺(1851~1919年)が、清朝廷に対し、西流水囲場と東流水囲場の解禁を上奏する。すぐに朝廷で許可されると、ようやく現在の遼源市エリアでも、漢民族らの移民による土地開墾が進められることとなった。

1900年には、盛京囲場総管の高万梅が、西流水沿いの 45囲場も開放し、新移民が一気に流入する。こうして住民人口が急造すると、翌 1901年、扎拉芬阿林囲の 大疙瘩(今の龍首山)の西側に形成された集落地内に、地方役所「東路保甲分局」が開設される。これが、現在の遼源市域における、初の行政庁設置となった。

遼源市

1902年、海龍庁(今の 吉林省通化市 梅河口市海龍鎮)が海龍庁府へ昇格されると、東平県(今の 遼源市東豊県)、西豊県(今の 遼寧省鉄嶺市 西豊県)、西安県(今の 遼源市龍山区)の 3県を統括することとなる。下地図。
この時に新設された東平県と西安県が、現在の遼源市における初の 県役所(衙署)となった。

なお、西安県役所の方は、当初、今の遼源市東遼県老虎嘴屯に開設されていたが、翌 1903年、大疙瘩の 集落地(今の 龍首山の西側一帯)に移転されることとなる(奉天軍督になっていた曾祺と、奉天府長官の廷傑の協議により決定)。大疙瘩の町は、峻険な山々に重層的に囲まれた天然の盆地エリアに位置していたが、四方への街道が整備されていたことから、間もなく多くの人々が集住してくることとなる。
こうして、続く 1904年3月から、県長官の貴良到の指揮の下、県役所(衙署)と県城の建設工事が着手される。住民らも資金や労働力を提供し合い、 4城門を持つ 城郭都市「西安県城」が、現在の遼源市龍山区の中心部に完成するのだった。この時、東門=東吉門、西門=西寧門、南門=南康門、北門=北寿門 と命名され、外周部に掘削された外堀は全長 1,390 mに達していた。

その西安県の行政区域であるが、西は半截河を境界線とし、南は東遼河から北は半截河の範囲に至る、総面積 541ヘクタールにも及び、その中にあった 9.5囲を、4保 16社へ改編し統括したという。他方、東平県下にあった全 22囲は、20郷、12鎮、248村へ改編されている。

1907年、奉天省が遼寧省へ改称されると、西安県と東平県はそのまま遼寧省に属した。

遼源市

清王朝が滅び、中華民国が建国されると、西安県と東平県は引き続き、遼寧省に統括される。

1914年に海龍府が廃止され、遼寧省が奉天省へ改称されると、西安県と 東平県(間もなく、東豊県へ改称)は、共にこの奉天省下の遼沈道に属した。
これら両県は、清末より継承された土地開発が続行され、住民人口も順調に増加していくと、奉天省下でも有名な農業開発区として知られるようになり、これに合わせて、県城内の商業活動も活性化し、都市として順調に成長を遂げていくのだった。
1929年、奉天省が遼寧省へ改編されると、西安県と東豊県は共にこれに属した。

1931年9月の満州事変後、東北地方が日本軍に占領されると、西安県と東豊県は当初、そのまま奉天省に属したが、後に新設された四平省に統括される。
戦争末期の 1945年8月、西安県は北豊県へ改称される予定であったが、結局、実行されず、そのまま西安県の地名が継承される。 1948年には西安市へ改編されるも、隴西省西安市 と名称がダブったことから、1952年、遼源市へ変更され(市内を流れる「東遼河」に由来)、今日に至るわけである。

遼源市

なお、清末の 1904年に遼源市龍山区の中心部に築城された西安県城であるが、今日では完全に城壁、城門も撤去されており、かつての面影もわずかな路地名に残されるのみとなっている。バス停留所「北門」、北門区、遼河大路、永安橋、清真寺、謙府胡同、謙府街、など。


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