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甘粛省 蘭州市 ~ 人口 363万人、 一人当たり GDP 44,000 元
➠➠➠ 蘭州市内の 城跡リスト ➠➠➠
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蘭州城(金城郡城、金城県城)
【 蘭州市の 歴史 】
紀元前 221年、秦の始皇帝は中国統一後、全土を 36郡に分割する行政区制度を導入した。現在の蘭州市一帯は隴西郡に帰属した。
前漢時代の初期、秦王朝の制度をそのまま踏襲して、隴西郡が置かれた。そして紀元前 121年、前漢朝 7代目皇帝 ・武帝が霍去病を総大将とする遠征軍を組織し、西域の匈奴征討軍を発する。 霍去病は匈奴を北方へ追放し、そのまま駐留を続け、蘭州市の西部に 令居塞駐軍という駐留軍のための軍事施設を建設したという。 あわせて、黄河より西側の 4郡へ至る街道の整備も進められた。
紀元前 86年、現在の蘭州市中心部に金城県が設置され、天水郡の管轄下とされた。そして、それから 6年後、金城郡が 分離、新設される。
前漢朝 9代目皇帝・宣帝の治世時代、趙充国が西羌国を滅ぼし、西域にて台頭してくると、前漢は、西域最前線となる金城郡の統治、防備体制の強化を図るようになる。あわせて、新しく 7県が新設された。
後漢時代の 18年、金城郡の南部を分割して隴西郡を新設する。 110年、西羌民族が反乱を起こし、金城郡の大部分を占拠する。このとき、郡役所は允吾から 襄武(今の 甘粛省隴西県)へ移転された。それから、12年後に再度、郡役所は允吾へ戻された。
後漢時代末期、金城郡の北側が分割され、西平郡が設置される。このときから、金城郡の郡役所は允吾から 榆中(現在の 榆中県城の西側)へ移転されている。
三国時代、この涼州、関中一帯は西域民族らの割拠する不安定な地と化していた。
三国を統一した西晋も太平の世を維持することがかなわず、王族どうしの内紛から、全国に群雄割拠の時代を再来させることになる。 314年、金城郡の下に帰属していた枝陽県と令居県の 2県に加えて、新設した永登県を追加して、新たに広武郡が設置された。その郡役所は、現在の蘭州市紅古区窰街の近くに開設された。また同年、金城郡役所は榆中から金城へ移転され、この時から、金城郡役所と県役所は同じ城壁都市内で併設されることになる。
それから 300年近く、中国は南北朝時代に突入し、特に華北地域では五胡十六国時代とされる戦乱の世が続くこととなった。
長い戦国時代の中で、華北から起こった隋王朝は、ついに 585年、中国全土の統一に成功する。それから 3年後、金城郡は蘭州へと改名され、この地に総管府が設置された。この金城郡城の南側に皋蘭山という名山があり、これにちなんで蘭州と呼ばれるようになったとされる。2代目皇帝・煬帝の治世下、子城県が金城県と改名され、さらに、蘭州もまた金城郡へと戻される。金城県と狄道県の 2県を統治するものとし、金城県城に郡役所も併設された。
617年、金城校尉の薛が隋朝に反旗すべく挙兵し、西秦霸王を称するようになる。その王都は、この金城に置かれた。しかし、すぐに天水へ遷都してしまう。だが、唐の攻勢により滅亡させられる。
618年の唐による中国統一後の翌年、蘭州がこの地の統治機構として復活された。それから 6年後には、都督府へと改編されるも、656年には再び、蘭州へ戻される。しかし 742年、再度、金城郡へと改名された。759年、金城郡はまた蘭州へ改名される。州役所は、五泉県城におかれ、広武県との 2県を管轄することとされた。
しかし、安史の乱で国力を低下させた唐は西域での優位性を失い、 762年、蘭州は 吐蕃国(チベット族)に占領されてしまう。
その吐蕃国も、王位継承争いから南北に分裂してしまい、大きく国力を減退させることになった。これを機と見た唐軍は、安史の乱以降、吐蕃国が占領した河西と隴右各地の再奪還を図り、成功させる。さらに 沙州(敦煌)でも、851年、張議潮による 民衆軍「帰義軍」の反乱が起こり、吐蕃国の駐留軍が追い出される。これにより 瓜州、沙州、伊州、粛州などの 11州が唐に復帰し、唐王朝は張議潮を帰義軍政権の節度使に封じている。しかし、唐の国力と王朝権威の失墜ははなはだしく、すぐに、吐蕃国に再占領されてしまう。
だが、850年以降ともなると、吐蕃国の勢力は明らかに失墜しており、 869年に地方貴族と平民たちが、内部分裂状態であった吐蕃国朝廷に対して叛乱を起こしている。そして 877年、ついに吐蕃国は滅亡するに至る。しかし、吐蕃の残党勢力は小豪族単位で存続し、引き続き、中国西域を占領し続けることになる。
北宋時代、中国の内乱も終わり、中央集権王朝が誕生し、弱体化した吐蕃国の残党勢力の征伐のため、征西が繰り返し行われた。そして 1036年、河西地区および蘭州地区を平定することに成功する。また 1081年、北宋は西夏王朝の内乱に乗じ、西夏領土へ遠征し、蘭州全土を再平定している。この後、北宋と西夏王国との対立は激しさを増し、度々、軍事的衝突を見ることになる。
南宋時代の 1131年、50年あまり北宋王朝の下にあった蘭州地区も、今度は東北民族の金王朝により占領されることになるも、1161年、南宋は蘭州の再奪取に成功する。しかし、すぐにまた奪い返されてしまっている。このころ、蘭州地区は 南宋、西夏、金王朝のそれぞれが争奪戦を繰り広げた地であったわけである。
1234年、金王朝はモンゴル軍により滅亡させられ、蘭州もまたモンゴルの支配下に入ることで決着が見られた。
時は下って、1369年、明軍はモンゴル軍を撃退し、蘭州を奪取する。そして翌年、この地に蘭州衛を設置した。1399年には庄浪衛が置かれた。明代には、多くの人々が中原地帯から植民され、7割は農地開墾へ、 3割は対モンゴル守備兵として活用されることになった。このときに、蘭州一帯は飛躍的に発展していくことになる。
清代は明王朝の制度がそのまま継承されるも、さらに上に臨洮府と隴西都指揮使司が設置され、蘭州もその管轄下に入ることになる。1666年に、隴西甘粛は分割され、甘粛省が設置された。このときから、蘭州は常に甘粛省の中心都市として君臨することなる。 1838年、臨洮府役所は狄道州城から蘭州城内へと移転され、蘭州府と呼ばれるようになる。さらに、清末には隴甘総督衙門も蘭州城内へ移設され、蘭州の中国西域における絶対的地位は不動のものとなり、今日まで至ることになる。
なお、この蘭州古城であるが、今日では完全に城壁も撤去されており、かつての面影もわずかな路地名に残されているのみである。北側の河沿いに一部、かつての城門上にあった楼閣跡が復元されている。路地名から、以前の城郭都市跡が読み取れるものも少なくない。萃英門路、安定門、南城根、農民巷、東郊巷、広武門后街。
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