BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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河北省 廊坊市 ~ 人口 1,020万人、 一人当たり GDP 30,000 元


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  固安県城(方城邑、方城県城、固安州城)
  【初代】安次県城(安城県城)
  東安県城(【2代目】安次県城、東安州城)



【 廊坊市の 歴史 】

紀元前 4300年前、廊坊市一帯では既に人類の集落地が形成されており、農耕文化も開始されていたという。
今から 4000年前の黄帝による中原の統一事業に際しては、 安墟の地(今の 廊坊市安次区)がそのスタート地点となった、と史書に伝えられている。

西周朝の初代国王の武王は、旧商(殷)王朝の中心地区一帯を 燕の地へ改称し、燕国を建国させる。北部では、北戎らの遊牧民族らが跋扈した。

廊坊市

春秋時代には、北燕の王都である薊城の周辺地区に位置した(上地図)。この頃、現在の廊坊市固安県に方城邑が開設される。

戦国時代期、方城邑一帯は臨郷候国に帰属されたが、実質的には燕国と趙国との間で、都度、帰属先を変える小国に過ぎなかった。最終的には、燕国下の 上谷郡(紀元前 283年に新設)に組み込まれる。

紀元前 220年に燕国を滅ぼした秦朝は、 すぐに 広陽郡(旧燕国の 王都跡・薊県城が郡都を兼務)を新設し、廊坊市エリアはここに所属された。

劉邦が前漢朝を建国した紀元前 202年、安次県(今の 廊坊市安次区古県村)が新設され、幽州広陽郡に帰属された。また同時に、戦国時代期の方城邑が 方城県(今の 廊坊市固安県)へ昇格される(後漢時代には幽州涿郡に帰属)。下地図。

廊坊市

時は下って、北魏の統治時代、安次県が安城県へ改称される(引き続き、幽州府に帰属)。

隋代の 586年、方城県が固安県へ改名される(引き続き、幽州涿郡に帰属)。
また 605年には、安城県から安次県へ戻され、涿郡の管轄下に組み込まれる。

唐代初期の 621年、安次県役所が 石梁城(今の 廊坊市安次区朱官屯村の北側)へ移転される。
634年には、県役所が 常道城(今の 廊坊市北常道村)へ再移転される。

735年には幽州が范陽郡へ改称されるも、安次県は引き続き、ここに帰属された。あわせて、安次県役所が今の 廊坊市広陽区九州鎮の旧市街地へ移転される。
758年、安次県は再び幽州の管轄下に移籍される。固安県はそのまま涿郡に属された。

後晋朝が建国された 936年後半、石敬瑭により燕雲十六州が契丹国へ譲渡されるに及び、安次県も遼国の版図下に組み込まれた。下地図。
このとき、一時的に、安次県役所は 菘城(今の 廊坊市広陽区万庄鎮稽査王村)へ移転されている。

廊坊市

遼朝の治世下の 938年、幽州が南京幽都府へ改編される。安次県は引き続き、ここに所属した。
1012年には、南京幽都府が燕京析津府へ改称される。

1123年、女真族の金国の軍勢を借りて遼国の 燕京析津府城(今の 北京市)の奪取に成功した北宋は、念願叶い、燕雲十六州の一つであった幽州を再び漢民族の手に取り戻すこととなった。直後に燕山府路が設置され、安次県などを統括することとされる。

しかし、北宋朝廷は遼国の残党勢力と図り、今度は金国への攻撃を企てたため、1125年、激怒した金国の南下により、安次県を含む幽州全土は金国の版図下に組み込まれてしまう。このとき金朝に降った北宋朝の 名将・郭藥師は、そのまま燕京府城の守備を委ねられることとなった。
金朝の治世下の 1129年、安次県(今の 廊坊市広陽区九州鎮)は河東北路の帰属となる。

1151年に金朝がその王都を燕京へ移転すると、河東北路が中都路へ、燕京析津府が大興府へ改名されている。下地図。

廊坊市

元朝時代の 1260年、安次県が東安県へ改称される(霸州【後に燕京路、総管大興路へ改名】に所属)。
翌 1261年には 東安県城内(今の 廊坊市広陽区九州鎮)に東安州の州役所が併設される(大興府【後に大都路総管府】の管轄下に配される)。
1263年には、固安県(今の 廊坊市固安県)が固安州へ昇格される。

明朝が建国されたばかりの 1368年8月、大都路が北平府へ改称される。同年 12月、東安州城(今の 廊坊市広陽区九州鎮)が 渾河(永定河)の大氾濫に見舞われ、 州役所が 常伯郷張李店(今の 廊坊市安次区仇庄郷光榮村)へ移転される。
水害後の 1376年、古城跡は東安県城へ降格される(北平府に所属)。以後、旧州と通称されるようになったという(2004年に 九州【廊坊市広陽区九州鎮】へ改称された)。

1403年、北平府が北京と改名され、北平府が順天府へ改編されると、東安県は引き続き、ここに所属された。下地図。

廊坊市

清代、東安県(今の 廊坊市広陽区九州鎮)は順天府南路の管轄下に配された。

中華民国時代、京兆特別区に帰属される。1914年、東安県が安次県へ改称される(湖南省に同名の県が存在したため)。
1928年以降、新設された河北省に属した。

なお、「廊坊」の地名の由来であるが、北宋初期の宰相に就任した呂端の父である呂琦が、五代十国時代末期の後晋朝に兵部侍郎として従事していた折、そのあまりに巨大な邸宅が有名となり、近隣の人々が「侍郎房」と呼称し出したことに始まり、後世に至って、一帯の村全体が郎房村と通称されるようになる。1897年に京山鉄道が開通すると、この村の西側に駅が設置され、廊坊駅と命名される。こうして駅を中心に都市が形成され、もともとの村の名前も小廊坊村へ変更されるに至る。最終的に廊坊鎮へ昇格され、現在の市制へとつながっていくことになったわけである。


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