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昆明市
訪問日:20--年-月-旬 『大陸西遊記』~
雲南省 昆明市 ~ 人口 727万人、 一人当たり GDP 81,000 元
➠➠➠ 昆明市内の 城跡リスト ➠➠➠
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苴蘭城(庄礄故城)
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碧鷄関(昆州城、益寧県城)
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【豆知識】初代・招東城
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【豆知識】二代目・招東城(鄯闡府城、南門の外城)
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【豆知識】三代目・中慶府城(昆明城、雲南府城)
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谷昌県城
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官渡古鎮(蝸洞、 官渡県城)
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晋寧州城(滇池県城、益州郡城、寧州城、晋寧郡城、陽城堡万戸府城)
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昆陽州城(河西県城、建伶県城、冷邱県城、望水県城、万水県城、巨橋城)
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【初代】呈貢県城(呈貢鎮城、伽宗部、伽宗城、呈貢千戸城、晟貢県城)
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【二代目】呈貢県城
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帰化県城(呈貢区化古城村)
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楊林県城(楊林所城、羊林千戸所城、羊林県城、金馬里)
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宜良県城(羅裒籠、羅普籠、大池千戸所城、宜良州城)
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昆澤県城(新豊県城)
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安寧州城(連然県城、安寧県城、阿寧州城、阿寧部)
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【初代】富民県城(黎瀼千戸所城、梨灢甸、今の旧県村)
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【二代目】富民県城(永定県城)
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羅婺部の 易龍城(易龍県城、簡籠県城)
今の禄勸県雲籠村
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【初代】禄勸州城(掌鳩甸、石陽県城、武定府城)
今の禄豊県屏山鎮南甸村
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【二代目】禄勸州城(禄勸県城)
今の禄豊県屏山鎮の旧市街地
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【初代】潯甸府城(牧靡県城、升麻県城、新丁部、潯甸部、仁徳府城)
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【二代目】潯甸府城
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【三代目】潯甸府城(潯甸州城、迤東兵備道の道都)
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通泉県城(易隆堡、易龍百戸、木密守御所。今の 尋甸県易隆村)
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洟籠古城(紅河哈尼族彝族自治州 石屏県の東郊外 1km)
【 昆明市の 歴史 】
新石器時代からすでに古代人類の生息が確認されているわけだが、史書に残る文明史は、古滇国の建国からスタートされる(紀元前 277年)。
時は戦国時代、紀元前 306年に楚国は東隣の越国を滅ぼし勢力を拡大するも、紀元前 303年、斉、韓、魏の連合軍により北方の国境地帯を攻め込まれ、2年越しの対戦を経て紀元前 301年、大将軍の 唐蔑(唐眜)を戦死で失い、大敗する(垂沙の戦い。現在の
河南省南陽市
唐河県)。このとき、宛と葉の大部分の領土を 魏と韓に占領されてしまう。
さらに連合軍に同調した秦軍の侵攻も受け、紀元前 299年には 8ヵ所の拠点とともに、君主・懐王が秦国の捕虜となり抑留されてしまう。その直後の紀元前 298年に 頃襄王(紀元前 298~紀元前 263年)が即位するも、秦軍の侵攻に歯止めがかけられず、さらに 16ヵ所もの拠点都市を攻め取られてしまう。ついに、紀元前 292年に不利な条件で秦側との和睦が成立し、いったんは平和を実現する。しかし、国内経済や政治は大いに混乱し、ちょうど同時期、王都でも大火災が発生して、楚は大混乱となっていた。
このとき、楚庄王の末裔と自称した庄蹻が農民反乱軍を率いて反楚で挙兵すると、全国に戦乱が飛び火する。
王都・郢(今の
湖北省荆州市
荆州区の北西約 5 kmにある紀南城)をも占領された楚朝廷は機能不全に陥り、ついに農民反乱軍リーダーの庄蹻を将軍に任命し、体制側に取り込むこととなる。
亡国の危機に瀕する楚を立て直すべく、血気盛んな義勇兵らを従えた庄蹻は頃襄王に上奏し、さらなる領土拡張を企図して長江を遡り、四川省、雲南省方面へ遠征を願い出る(紀元前 279年)。
こうして、秦国が巴国や蜀国を滅ぼして設置していた
四川省
の巴郡や黔中郡を奪取し、さらに南下して 滇池地区(今の 雲南省昆明市)にまでの進軍に成功する。
そのまま同年中に、庄蹻ら楚遠征軍は地元部族集団を軍事制圧するも、 他方で楚本国も秦の報復として 大将軍・白起の軍により攻め込まれており、ついに紀元前 278年には王都・郢も占領され、陳への遷都に追い込まれてしまうのだった。
庄蹻らは急遽、本国救援への帰国の途につくも、秦軍により巴郡と黔中郡が再占領されてしまい、雲南地方から出られなくなる。
こうして母国への帰還を断念した楚遠征軍は同年、そのまま庄蹻を 滇王(庄王)として古滇国を建国することとなる。
当時から雲南省最大の淡水湖であった滇池の周辺一帯を勢力拠点とし、その王都が地元部族集団の環濠集落を大改修する形で築城される(今の
昆明市晋寧区晋城鎮
)。
この時代、進駐した楚軍により、中原の先進的な文化が滇池地区に伝えられ、経済、社会発展に大きな影響をもたらせたという。庄蹻は紀元前 256年に死去するも、その部下らが各地に割拠する形で、何とか王国を存続させていくこととなった。
最終的に祖国の楚は紀元前 223年、秦国の 名将・王翦の率いる 60万の大軍を前に大敗し、滅亡してしまう。紀元前 221年に秦により中原が統一された後も、この古滇国は独立を保ったままであった(下地図)。
その後、古滇国は秦の遠征を受けて降伏し、続いて建国された前漢朝にも帰順するも、紀元前 116~111年にかけて南部のベトナム越国と共同で自立の道を模索し出す。こうして再び、前漢朝 7代目皇帝・武帝による武力討伐を受けることとなる。
最終的に紀元前 109年、古滇国王・常羌は降伏し、武帝から正式に古滇国王に封じられ、金印を下賜される。
このとき、中央集権体制の導入が図られ、益州郡が新設される。その下に 24県が配された(下地図)。当時の益州郡は雲南省東半分を占め、その郡都は、それまで古滇国の王都であった滇池県城(今の
昆明市晋寧区晋城鎮
)が兼務した。
そして時は下って、三国時代。223年の劉備死後、雍闓(ようがい)を中心に、雲南一帯の諸郡も蜀へ反旗を翻し、呉の孫権へ帰参しようとする。すでに、劉備率いる蜀軍の大敗を知り(222年、夷陵の戦い)、帰属先を呉に変更していた交州の士燮の仲介も経て、一時的に呉の勢力圏下に組み込まれることになる。さらに、現在の
曲靖市エリア
の首領であった孟獲もこの時流に乗り、周辺部族らの説得工作を進めていく。
しかし、225年、蜀本軍の諸葛孔明が南蛮遠征を決行するに至り、首謀者であった雍闓が同盟部族長らに殺害されると、孟獲が代わりに総大将に祀り上げられる。こうして同年 9月までの約半年にわたる戦いを経て、 かつてより雲南地方の中心地域であった「滇池」の 湖畔地帯(現在の 昆明市南)にまで蜀軍が至り、孟獲は完全降伏する。
孔明は反乱の平定後、益州郡を建寧郡へ改称し、その郡都を滇池県城から 味県城(今の
曲靖市麒麟区三岔
)へ移転する。現地での統治は、孟獲ら主要な部族長 4名らに委ね、孔明ら蜀本軍は成都へ引き上げたのだった。この時、この滇池地区一帯を任されたのが、地元豪族の爨氏だったという。
爨氏の一族はその後、大きく繁栄し、雲南省東部一帯を勢力圏に治める大氏族へ成長していくこととなる。
この爨氏は南北朝時代に入ると、中原政権から自立の動きを模索し、強固な結束力と山岳地帯を使ったゲリラ戦で勢力を拡大する。 300年ぶりに大陸中国を統一した隋朝の侵略をも阻止して、その威光を天下にとどろかせた爨氏であるが、唐王朝の時代、これに朝貢することとなる。
しかし、唐朝の周辺支配力も低下したころ、雲南省西部(王都・
大理
)で台頭した南詔国の蒙氏が東部への勢力拡大を図るようになる。
755年、南詔国 2代目国王・閣羅鳳(在位 748~779年)が東部地域に割拠する部族勢力の征服をもくろみ、自分の息子である鳳伽異を総大将として派兵し、爨氏らとの数か月に及ぶ激戦を経て、彼らを服属させると、そのまま滇池地区に駐留させる。そして 765年、第二の副王都として
拓東城(今の 昆明市盤龍区)
を築城させる(最終的に鳳伽異は当地で若死し、その子である異牟尋が 3代目国王に即位する。在位 779~808年)。
後に
鄯闡府城(原住民の言語で「第二の城」の意。下地図)
へと改称され、東都とも別称されることとなった。これが昆明市の中心部で築城された最初の城郭都市とされる(古くから、簡易な城塞は存在したが、史書の記録に残されていないという)。
その後、南詔国は ベトナム、タイなどまで勢力を拡張するも、配下の宮廷家臣らの権力が強まり、形骸化した国王は統率力を失い一族郎党処刑されると、937年、将軍であった 段思平(893~944年)が新たに 大理国(王都・
大理
)を建国して、その勢力圏を継承することとなる。下地図。
大理国も紆余曲折しながらも 300年間、雲南省を統治し続けるも、外交的には 北宋、南宋に朝貢していたため、モンゴル軍と南宋との間で戦端が切られると、モンゴル軍と敵対することとなる。
1244年、モンゴル軍の第一次大理遠征が始まると、大理国側も高禾を総大将とする大軍を前線へ派兵するも、大敗を喫し、高禾も戦死する。このとき、モンゴル軍は南宋軍が守る
四川省
の攻略をあきらめ、全軍が大理征服戦へ投入されたため、軍事力に差があり過ぎたのだった。
しかし、1241年にモンゴル帝国の第二代皇帝のオゴデイ・ハーンの病死し、1251年に 4代目皇帝としてモンケが即位するまで、モンゴル帝国朝廷内で内紛が勃発することとなり、大理遠征軍も急遽、本国へ帰還することとなる。この結果、大理国側は一命をとりとめたのだった。
モンケによってモンゴル帝国の軋みが修正されると、再び、対外侵略戦争が再開されることとなった。次弟のフビライを南宋征伐、三弟のフレグをイラン征伐に派遣する。
こうした中で、南宋の孤立化を図ったフビライ軍は、1252年末に 京兆(長安)を出発し、チベット高原を越えて、1253年9月に大理国の国境に至る(第二次大理遠征)。大理国北部の要衝で、長江上流にあたる金沙江を無傷で渡河し(同年 10月)、王都・
大理城
へ侵攻する。このとき、多くの部族らが戦わずしてモンゴル軍に寝返っており、大理国王(段興智)は王城を放棄して東部の鄯闡城へ逃走するも、モンゴル軍の追撃を受けて、翌 1254年秋にここ鄯闡城にて降伏に追い込まれる。下地図。
国王・段興智は捕縛後、モンゴル帝国の王都まで連行され、モンケと対面させられる。モンケは南宋攻略を重視して、周辺国の懐柔策をとり、金符を下賜して雲南省への帰還を命じる。
以後、フビライの六男フゲチが雲南王として送り込まれ(1267年)、旧王家の段一族らは貴族層として生き延びていくこととなった。
1276年、モンゴル帝国はようやく南宋の 王都・
臨安
を占領し、南宋政権を崩壊させると、支配地の統治機構の再整備に着手する。
このとき、全国が 13行省に分割され、その一つとして雲南行中書省が新設されたのだった。同時に、長らく雲南エリアの首都であった
大理
から
昆明(鄯闡府から中慶路へ改称)
へと行政庁が移転され、以後、昆明が雲南地方の中心都市と定まる。下地図。
雲南王 フゲチの子孫と 旧王家の段一族らは婚姻関係を維持し、以後、昆明(中慶路)を中心とする 雲南王国(梁王国)が 100年間、存続することとなる。
1381年、明の朱元璋が、傅友德と藍玉、沐英らを総大将として 30万の大軍で 雲南王国(梁王国)へ派兵する。この時、地元部族長や 皇族・段一族らは雲南王を裏切り、明軍に与すると、瞬く間に雲南省全土が併合されたのだった(1390年)。下地図。
翌 1382年、中慶路を雲南府へと改称し、沐英が雲南府長官として、
本格的な煉瓦積みの 城壁都市(雲南府城)
の築城を開始する。城壁の全長は約 4,443 mで、その高さは 9 m、城門を 6箇所に持つ巨大都市が建設されることとなる(下地図)。
あわせて、明王朝は漢民族の雲南地方への移民を奨励し、大いに人口構成を変えてしまうこととなった。
明末の混乱期、南明政権を率いた 永暦帝(38歳)が、流浪の末にこの旧滇国の地に至り、昆明を 王都「滇都」と改名して、清軍に抵抗し続けるも、明の降将で清軍に加担した呉三桂により、1659年、滇都は占領され、永歴帝はさらにビルマ方面へと追われていく。
そして、
ついに呉三桂は永暦帝を捕縛し、1662年6月1日、この滇都城内にて処刑する
。この功績により、呉三桂は清朝により平西王に封じられ、雲南地方一帯の領有を認められることとなった。これにあわせ、呉三桂は
五華山
と
翠湖
の一帯に王府の建設を手掛ける。
しかし、1673年、清皇帝の康熙は藩制度の廃止を決定したため、呉三桂は昆明にて挙兵し、反清抗争を展開することになる(三藩の乱)。1678年に呉三桂は 66歳で病没後、孫の呉世璠が跡を継ぐも、清軍の反転攻勢でついに昆明まで攻め入れられ、1681年に自害して果てる。こうして清朝による中国統一が完成されるのだった。
時は下って
清末の 1858~1868年、イスラム教徒の杜文秀による 反漢民族、反清運動が雲南地域に巻き起こり
、
大理
など、大小 50箇所以上の県城を制圧し、雲南省西部一帯を占領するも、数度にわたる昆明城の包囲戦に失敗し、勢いを失って(下地図)、1872年に杜文秀は服毒自殺するに至る。残党勢力も 1874年までに掃討された。
1910年にフランスにより 滇越鉄道(今の昆河鉄道)が開通し、昆明とベトナムとが直接、鉄道でつながることで、昆明市はそのまま海路へとつながる内陸都市となる。また同年に、ドイツの技術者を招いて、中国初の水力発電設備の建設を開始し、実際に 1912年4月より電力供給が始まっている。中国の奥地に位置する内陸都市にもかかわらず、昆明の近代化は東南アジア方面の欧州列強の手で確実に進められていくこととなった。
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