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荊門市
訪問日:20--年-月-旬 『大陸西遊記』~
湖北省 荊門市 ~ 人口 290万人、 一人当たり GDP 46,000 元
➠➠➠ 荊門市内の 城跡リスト ➠➠➠
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荊門県城(荊門軍城、荊門州城)
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長林県城(緑麻県城、章山県城)
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関羽の最期の地(麦城、漳郷、臨沮)
【 荊門市の 歴史 】
荊門市一帯では、すでに新石器時代には人類が生息していたとされる。 漢江と 長湖、漳河の三大水脈が交錯する豊かな自然環境が、人類文明の発祥に効果的に作用したという。
西周王朝の時代、権国と冉国に分かれて帰属されるも、春秋時代期に入り、 両国が楚の武王により滅ぼされ、以後、荊門市エリアは楚国の版図下に組み込まれた。
戦国時代の紀元前 278年、秦の昭襄王が白起を派遣し、楚領へ侵攻する。秦軍は当時の楚の王都であった郢の占領に成功する。こうして王城跡を郢県城内とし、南郡役所を併設する。このとき、荊門市一帯は南郡下の当陽県の管轄下に置かれた。当時の当陽県の県域は、東は漢水から西は沮河まで、南は麦城から北は 今の荊門市中部一帯までを含む広大なものであった。
しかし、紀元前 221年に秦の始皇帝が中原を統一すると、当陽県(今の 宜昌市当陽市)は廃止され、その県域は郢県へ吸収合併されることとなる(同じく南郡に帰属)。
紀元前 202年に劉邦により建国された前漢朝の治世下、最初は封国の一つである臨江国の版図下に置かれるも(上地図)、臨江国が廃止されると、江陵県に帰属された。
紀元前 148年には、江陵県から 当陽県(今の 宜昌市当陽市)が 分離・復活設置される。その県域は戦国時代期と同じ範囲とされ、後に県城は沮漳河流域へ移転される。
王莽による新朝の時代、南順郡が新設され、鄀県と当陽県を統括することとされた。
後漢末期の 208年、魏の曹操は荊州を占領すると、南順郡を廃止し、当陽県は南郡の管轄下に移籍される。
なお、赤壁の戦いの序盤戦で曹操軍に追撃され壊滅した劉備軍であったが、その戦場となったのがこの当陽県内である。趙雲が劉備の 子・阿斗(後の劉禅)と 甘夫人(劉備夫人)を保護した長坂も、当陽県下にあった。下地図。
翌 209年、赤壁の戦いの混乱期から 1年近く続いた呉魏の戦いにもようやく終止符が打たれ、 周瑜が曹仁らを撃破すると、南郡も呉に占領されることとなる。当初は周瑜自身が南郡太守に就任するも、 210年に死去すると程普が後継の太守となる。引き続き、南郡下の当陽県が市域を統括した。
215年、益陽での魯粛と関羽の会談合意を受け、呉と蜀が荊州分割の協定を結ぶ。これを受け、当陽県を含む南郡一帯はいったん蜀に貸与されるも、219年12月の関羽の死とともに荊州の蜀拠点は消滅し、当陽県もまた呉領へ再編入されることとなった。
なお、関羽が最後に立てこもった麦城や、彼が捕縛された漳郷という地、そして息子の関平とともに処刑された臨沮の地も、全てこの当陽県下のことであった(下地図)。関羽討伐戦を成功に導き、荊州奪取の立役者となった呂蒙は、このとき 南郡太守(江陵城に滞在)に封じられるも、わずか 1か月後に病死してしまうのであった。
三国時代を統一した西晋時代、そのままの行政区が継承されるも、東晋の知世下の 352年、当陽県の東部が分離され、武寧県が新設される。
401年には、沮漳河の流域に 武寧郡(郡役所は編県城内に開設)が新設され、当陽県はここに移籍されるも、後に南郡に戻される。
時は下って、隋唐代には、当陽県は基州へ、後に平州へ、さらに玉州へと改称されるも、最終的には玉州は廃止され、江陵郡下の当陽県に落ち着く。
唐代後期の 804年、当陽県から分離され、荊門県が新設される。同じく江陵郡の管轄下に置かれた。
五代十国時代の後晋朝の治世下の 936年、当陽県城内に荊門軍の軍役所が併設され、長林県(編県から改称)を統括することとされる。引き続き、江陵府の管轄下にあった。下地図。
北宋時代の 972年には、当陽県城から長林県城へ荊門軍役所が移転される。しかし、1073年に荊州軍が廃止され、当陽県と長林県は共に、江陵府にそのまま属した。
南宋の時代、一時期、当陽県自体が廃止され、長林県に編入されるも、すぐに復活される。
最終的に 1146年、荊門軍の軍役所が荊門県城内へ移転される。
1236年に荊門軍役所が再び当陽県城内へ再移転される。モンゴル軍の攻撃を 5年間も耐え凌いだ襄陽城も、ついに 1273年に陥落し(下地図)、そして 1276年には、首都の臨安も開城して、南宋は全面降伏するに至る。
元代には、荊門軍が荊門府へ、さらに荊門州へ改編される。一時期、当陽県が廃止され、荊門県に吸収合併されるも、明代に入って復活される。荊門県城内に併設されていた荊門州の管轄下に配された。
清代も明代の行政区が継承される。そして、1791年には荊門州が荊門直隷州へ昇格されるに至る。
中華民国時代に入り、州制度が廃止され、荊門州は荊門県へ降格される。共産党時代に入り、最初、荊州市に帰属されるも、後に独立の市となった。
なお、今日の荊門市の南にある掇刀区であるが、この地名は三国時代の 名将・関羽がこの地に立ち寄った際に自身の刀で石を刻んだ故事にちなんで命名されたとされる。
また、かつて荊門県城が設置されていた 中心地区(東宝区)であるが、隋代に創建された東山宝塔にその名が由来するという。
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