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訪問日:20--年-月-旬 『大陸西遊記』~
吉林省 吉林市 ~ 人口 365万人、 一人当たり GDP 39,000 元
➠➠➠ 吉林市内の 城跡リスト ➠➠➠
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吉林府城(吉林木城、永吉州城、吉林庁城)、吉林文廟、北山古廟群、金日成留学紀念室
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龍潭山城跡(高句麗国境の城塞遺跡)
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烏拉古城(烏拉国王都跡、烏拉街。吉林市龍潭区烏拉街鎮旧街村)
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嘎呀河城跡(吉林市舒蘭市)
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前進城跡(吉林市蛟河市)
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蘇密溝古城(蘇密城。吉林市樺甸市)
【 吉林市の 歴史 】
吉林市内では、寿山仙人洞などの古代集落遺跡の発掘調査により、すでに 2万年前の旧石器時代後期には人類の生息があったことが確認されており、中国東北地方でも比較的早い時期から、古代人類による集団生活がスタートされていた、と考えられている。
約 5000~4000年前には、吉林省境内で女系氏族社会をベースとする伝統的な部族集団が形成され出し(粛慎族)、中国大陸側から農業や牧畜などの産業が伝播すると、その接触具合に応じて、部族集団が活発に細分化されるようになる(濊貊族、東胡族、山戎族、夫余族など)。下地図。
その後、中原で周王朝が弱体化し、群雄割拠の 春秋戦国時代(紀元前 770~前 221年)がスタートすると、河北省、遼寧省一帯を支配した燕国により、中国東北地方への軍事的、文化的介入が進むようになる。現在の
吉林省四平市
一帯まで勢力圏を拡大させた燕国は、
二龍湖古城(今の 四平市梨樹県石嶺郷二龍山村の北 1.5 kmにある崴子屯に現存。下地図)と、真番障塞(朝鮮族や真番族の侵入を防ぐための長城)を築城し、前線拠点に定める
(下地図)。
あわせて、遼東郡に吉林燕長城を建造することとなる(下地図の青ライン)。
しかし、その燕国も紀元前 222年に秦国により滅ぼされ、翌紀元前 221年、秦王朝が中原を統一するも、遼東地方以北の支配は放棄されるのだった。
その後、秦王朝が滅亡し(紀元前 206年)、楚漢戦争を制した劉邦が前漢朝を建国すると(紀元前 202年)、中国東北部に割拠した 夫余族(主に、現在の
吉林省長春市
から
松原市
に連なる平原地帯を拠点としていた)も前漢朝と朝貢関係を結び、後に夫余国の立国を許可されることとなった。
この時代、夫余国は王都をこの平原地帯に開設しつつ、度々、遷都していたようで、そのうちの一つが、今の
吉林省長春市寛城区小城子村
にあった城塞集落遺跡で、当時、中国東北部で最大規模の集落地が形成されていた、と考えられている(後漢末期には、扶余王城には合計 3万戸、総人口約 20万人が記録されることとなる)。この王都に近かった現在の吉林市エリアも、多くの集落が立地していたと推察される。
そのうちの一つが 穢城(現在の 吉林市東団山の山麓にある南城子)で、現在の吉林市域で最古の文明的集落遺跡に指定されている。
しかし、紀元前 108年、前漢朝 7代目皇帝・武帝が対外圧力を強めると、東隣の衛氏朝鮮が滅ぼされる。その旧領に玄菟郡が新設されると、夫余国もこれに帰順して、前漢朝の直轄支配下に組み込まれる(後に遼東郡へ移籍)。 これが、吉林省エリアが中原王朝の直轄支配を受ける最初となった。
時は下って、後漢末~三国時代、公孫氏が遼寧省一帯を支配し、現在の吉林市一帯は平州遼東郡に統括されていた。最終的に 魏の 司馬懿(179~251年)により公孫氏が滅ぼされると(238年)、玄菟郡が再設置され、扶余国、高句麗、鮮卑族らの東夷部族らを監督した。
その後、司馬懿の 孫・司馬炎(236~290年)が魏を滅ぼし西晋朝を興すと(265年)、三国の統一に成功する(280年)。しかし、三国時代の 100年もの間、中原が乱れ続けたため、中国外周部の諸民族が台頭することとなり、西晋朝の支配力を削いでいくこととなった。285年、中国北部に勢力を張った鮮卑族が中国東北部に侵攻すると、扶余国の国王は自害に追い込まれ、扶余国は滅亡する(第一次滅亡)。下地図。
翌 286年、西晋朝は扶余国再興のための援軍を派兵し、扶余国を再建させると、王都はそのまま以前の 場所(喜都城、別称:合龍城・合隆城)に再設置される。しかし、317年に西晋朝が滅亡し、五胡十六国時代という戦乱期が再開されると、間もなくの 346年、扶余国は再び、鮮卑族の 族長・慕容皝(297~348年。337年に前燕朝を建国していた)の侵攻を受け、降伏に追い込まれる。この時、王都を現在の
吉林省長春市農安県
へ遷都したとされる。
391年、高句麗王国の 19代目国王に談徳(374~412年)が即位すると(後に 広開土王と称される)、その勢力を急拡大させ、続く 長寿王(394~491年)、文咨明王(?~519年)の治世下で、高句麗は最盛期を迎えることとなる。
470年、高句麗はいよいよ扶余国領を蹂躙し、壊滅的なダメージを与えると(54の城塞と 1,400の集落地が破壊・占領されてしまう)、扶余国王は一時的に和睦を結んで延命を図るも、493年に西部から勿吉族の侵入を受け、国王が高句麗へ亡命することで、最終的に滅亡することとなった(第二次滅亡)。
以後の 200年間、現在の吉林市一帯も高句麗領に組み込まれることとなる。
この時、高句麗は勿吉族の東進を阻止すべく、現在の吉林市内の龍潭山と 東団山、三道嶺子などに、大小さまざまな軍事要塞を建造し、国境警備に当たらせている。下地図。
その高句麗も、隋朝や唐朝の討伐を幾度も受け、668年、ついに滅亡に追い込まれる。
その直前の 631年~646年、高句麗が唐軍の侵入に対抗すべく、遼河の南の営口から、北は
旧扶余国の 王都(現在の 吉林省長春市農安県の中心部)
近郊の松花江河畔まで続く、長大な防塁壁を建造している。これが世に言う「千里の長城」である。上地図の左上に続く凹凸ライン。
その後しばらくは、唐朝の直轄下で安東都護府に統括されるも、過酷な統治政策に反発した地場部族や高句麗遺民らが反乱を繰り返すようになると、粟末靺鞨部(勿吉系七部族の一つ)の 族長・大祚荣が、これらを統合し台頭してくる。 698年冬、唐朝は討伐軍を発するも、天門嶺(張広才嶺)の戦いで大敗を喫すると、そのまま 渤海国(当初は震国と称した)の建国を許してしまうのだった。
しかし、強大な唐王朝と長期戦を戦い抜く不利を熟知していた渤海国は、すぐに唐朝と朝貢関係を結んで再帰順することとなった。以降、戦乱は収まり、現在の吉林市一帯は、そのまま渤海国の支配下で、扶余府の扶州と 涑州(州都は、かつての扶余国王城跡の一つに開設 ー 現在の吉林市東団山の山麓にある南城子一帯)に別れて統括されることとなる。下地図。
その渤海国も、唐王朝が滅び、中原が五代十国時代に突入して戦乱の混迷に陥る中、西方で勃興した 契丹族(916年に耶律阿保機が契丹族を統一していた)によって滅ぼされてしまうのだった(926年)。こうして中国東北部を平定した契丹族は、大契丹国を建国することとなる(947年に遼王朝へ改名)。
この時代、今の吉林市一帯は、東京道通州の管轄下に置かれた。
その遼王朝も、1125年、旧渤海国遺民で靺鞨族の末裔にあたる 女真族国家「金王朝(1115年建国)」の攻撃により、滅亡に追い込まれる。中国東北地方を支配した金王朝の治世下、現在の 吉林市域は最初は咸平路韓州に、後に
上京路会寧府(今の 黒竜江省ハルビン市阿城区)
に統括される(下地図)。
この遼王朝~金王朝時代にかけて築造された 30ヵ所余りの城塞跡が、今でも吉林市内に残されている ー 吉林市中心部にある江北土城子や江南官地など。
続く元王朝時代、今の吉林市域は、遼陽行省下の 開元路(路役所は、
黄龍府城に開設 ー 今の 吉林省長春市農安県
)に統括される。
明代に入ると、このエリアは 海西女真四部族の一つである鳥拉部族のテリトリーとなり、後に明朝の許可の下、鳥拉国を建国するに至る(下地図)。
1409年、明朝は現在の吉林市中心部に 造船基地「吉林船廠」を設置し、また遼東都司と 奴児干都司(三万戸府)との連携を強化させる。造船を通じて、兵士や 食料、報奨金、献上品などを積載するための船舶が大量に建造され、同時に駐屯兵団や食料などを配置した軍事基地や倉庫が整備されていくと、現在の吉林市中心部は、水運交通の一大拠点へ大変貌を遂げることとなった。
しかし、東北地方における明朝の治世も長くは続かず、 1449年秋の土木堡の変後、モンゴル軍に大敗した明朝廷は、中国北部や東北部での支配力を低下させてしまい、女真族ら地場部族の台頭を許すこととなる。以降、吉林省一帯は、海西女真族のテリトリーに組み込まれていくわけである(下地図)。
その後、海西女真族を統一したヌルハチが後金朝を建国すると(上地図)、中国東北地方を平定し、そのまま中原へ攻め込んで清王朝を建国する(ヌルハチの 孫・フリンの治世時代の 1659年)。
清朝は東北地方に軍府制を導入し、満州民族(女真族と大小さまざまな周辺部族ら)だけによる、守備と統治体制が構築される。
また同時に、中国東北地方は満州族 発祥・勃興の地として神聖化され、漢民族や モンゴル族、朝鮮族らの流入が禁止され、満州地方の文化や特産品の保護政策が実施されることとなった。こうして、1640~1720年にかけて大規模な土塁壁と堀を有する 長城「柳条辺壁(壕)」が建造され、封禁政策がスタートされるわけである。最初に柳条辺壁が完成された当時、吉林省は「辺外」とだけ呼称されていたが、北側に新壁も築造されると、「老辺外」と「新辺内」に区分けされることとなる。
同時にこの時代、東方への領土拡張を図るロシア帝国が、シベリアから南下し中国東北地方を圧迫するようになると、 1658年、清朝廷は寧古塔将軍の沙爾虎達に命じ、今の吉林市下の松花江沿いから温徳河口一帯に造船基地を複数、新設させ、八旗水軍の軍事拠点を兼ねる拠点に定めさせる。
1661年、正式に 水師営(水軍基地)が完成すると、2,000人近い兵士が配置された。
また 1671年には、寧古塔副都統の安珠瑚により、満州駐在の八旗軍 3000人が動員され、 1673年までの 2年間をかけて、吉林木城(後に、木板中心の土塁城壁から、レンガ積み城壁へ全面改修されることとなる)の築城が進められる。
1676年、初代・寧古塔将軍(後に 初代・吉林将軍へ改称)の巴海も、その役所を吉林城へ移転していくると、吉林木城(今の吉林市中心部)は、吉林将軍の行政都市兼軍都として発展していくこととなった。巴海(?~1696年)は朝廷へ上奏し、漢民族らの船大工を大量に呼び寄せ、ロシアに対抗するための水軍強化を図り、この吉林着任の一年間で 40隻もの戦艦を建造させる。彼は、後に水軍を引いて、黒竜江の河川戦でロシアの侵略軍を敗走させる功績を挙げ、後に 黒竜江将軍、調蒙古鑲藍旗都統、議政大臣へと昇任していくことになる(1696年死去)。また、こうした早いうちからの艦隊整備が、後に勃発するロシア帝国との 雅克薩の戦い(1685~1688年。上地図)での大勝の基礎を作り上げることとなったわけである。
他方、清代を通じ、時の皇帝は度々、
王都・北京
から 父祖の地・満州へ足を運んでおり、この吉林城にも皇帝一行が立ち寄った記録が残されている。それは合計 3回にも及び、4代目皇帝・康熙帝による東方巡視時の 2回(1682年と 1698年)、6代目皇帝・乾隆帝の東方巡視時の 1回(1754年)が言及されている。
1727年、永吉州(1747年、吉林庁へ改編)が新設されると、そのまま州役所が吉林木城内に開設される。下地図。
1881年、吉林庁が吉林直隷庁へ、さらに翌 1882年には吉林府へ昇格される。
清王朝が滅亡し、中華民国が建国されたばかりの翌 1913年、吉林府は吉林県へ改編される。1929年、吉林県が永吉県へ改称されると、同時に吉林市制がスタ―トする。
満州事変の後の 1931年9月21日、日本軍が吉林城を占領すると、翌 1932年3月1日、満州国下で吉林省が新設される。1945年8月に日本が敗戦すると、 1948年、吉林省の省都として吉林市が定められるも、 1954年に
長春市
へ変更されて、今日に至るわけである。
なお、この 吉林木城(吉林府城、吉林庁城、吉林将軍城)跡であるが、今日では完全に、城壁、城門、外堀が撤去されてしまっており、かつての面影もわずかな路地名に残存されるのみとなっている。順城街、西大街、北大街、炭市胡同、橋頭胡同、大東門広場 など。
また上の地図から、現在の北大街と河南街との交差点に、吉林将軍役所(後に庁役所、府役所へ改編)が開設されていたことが分かる。
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