BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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中原統一後の秦の始皇帝と華南遠征



広東省 江門市 ~ 人口 451万人、 一人当たり GDP 46,000 元


 ➠➠➠ 江門市内の 城跡リスト ➠➠➠  クリック

  恩平県城(思平県城、海安県城、斉安県城)
  新寧県城
  盆允県城(新会郡城)
  旧市街地「墟頂」と 釣台故跡(広東省の 著名儒学者・陳白沙の故郷)
  【二代目】新会県城(岡州城、義寧郡城)
  【初代】新会県城(平夷県城、新夷県城、牛肚湾巡検司)
  鶴山県城(遵名都城、附城都、鶴城鎮)
  崖山の 古戦場(南宋亡命政権 滅亡の地)
  崖門砲台



【 江門市の 歴史 】

春秋戦国時代、現在の江門市域は蛮族世界に分類されていた。
紀元前 221年に秦の始皇帝が中原を統一すると、続いて、華南地方への遠征を開始する。 5年越しの武力侵攻の末、華南一帯の併合に成功する(紀元前 214年)。

翌紀元前 213年、この新支配地に郡県制が導入され、桂林郡、南海郡、象郡の 3郡が新設される。その中心とされた南海郡下には 四会県、番禺県、博羅県、龍川県の 4県が配された。このとき、江門市域の大部分は、四会県(現在の 広東省肇慶市 四会市会城に開設)に帰属し、西半分は桂林郡下に置かれた。
その秦朝も間もなく滅亡し(紀元前 206年)、中原が再び戦乱となる中、南海郡長官の 趙佗(紀元前 240?~前 137年)が西隣の桂林郡と象郡を武力併合し、南越国を建国する(紀元前 204年)。

江門市

こうして華南地方に独立政権を樹立した南越国も、紀元前 111年、前漢王朝の武帝により武力制圧されると、その領土は前漢王朝の支配下に組み込まれる。直後に行政区の再編が行われ、南海郡、蒼悟郡、合浦郡、郁林郡などの 9郡が新設される(上地図)。四会県(現在の 広東省肇慶市 四会市会城)は引き続き、南海郡の帰属とされ、江門市域の西半分は合浦郡に属した。

後漢時代も引き続き、南海郡四会県の管轄下に置かれた。
三国時代の 218年、呉により合浦郡から高凉郡が 分離・新設される。郡役所は、思平県城(県役所は今の 江門市恩平市良西鎮の恩平舗)に開設された(安寧県、高凉県、思平県の 3県を統括)。これが、現在の江門市域における過去最高レベルの行政機関となる。

続いて 222年、思平県は海安県へと改名され、また四会県の東南部が分離され、平夷県(県役所は今の 江門市新会区司前鎮河村墟)が新設される。平夷県と四会県共に、そのまま広州南海郡の管轄下に配された。

江門市

280年、西晋朝により呉も滅ぼされると、その直後に 平夷県(県役所は今の 江門市新会区司前鎮河村墟)は新夷県へ改称される(下地図)。あわせて、高凉郡役所が思平県城から安寧県城へ移転される。そのまま 安寧県、高凉県、思平県の 3県を統括した。


江門市

東晋時代末期の 420年、南海郡と新寧郡から新会郡が 分離・新設される(上地図)。郡役所は 盆允県城(今の 江門市鶴山市双合鎮。586年~589年に南朝の陳王朝の亡命政権が最後の王都を開設した。唐代の 735年廃城)に開設され、配下の 6県(盆允県、新夷県、封平県、 初賓県、義寧県、始康県)を統括した。下地図。

江門市

南北朝時代、陳王朝により 思平県(今の 江門市恩平市良西鎮の恩平舗)が斉安県へ改名される。

隋代初期の 591年、全国で郡制が廃止され、州制へ改編されると、新会郡(郡都は 盆允県城)は 允州(593年に岡州へ改称)へ改編され、また同時に、新夷県(今の 江門市新会区司前鎮河村)が 【初代】新会県へ改称される。また 598年、斉安県が海安県へ改称される。

隋朝 2代目皇帝・煬帝の治世時代の 605年、岡州(州都は、旧・盆允県城)が廃止され、南海郡に吸収合併される。あわせて、封楽県が新会県へ、封平県が義寧県へ併合される(すぐに元に戻される)。

唐代初期の 621年、岡州(州都は、旧・盆允県城)が復活設置されると、新会県、封平県、封楽県、義寧県の 4県を統括した。後に 恩平県(海安県より改名)も編入される。
ついに 639年、今の新会区 中心部(会城エリア)に新城郭都市が築城される。新会県と岡州役所は共にここに移転されることとなった。これが、現在の新会区の勃興となる(【二代目】新会県城)

江門市

742年、岡州が義寧郡へ改編されるも、間もなくの 758年に岡州に戻される(新会県と義寧県の 2県のみ統括した。上地図)。 唐末の 805年、ついに岡州は完全廃止され、新会県と義寧県は 広州 に直轄されることとなる。
そのまま宋代は広南東路広州下の新会県に、 元代は江西行中書省広州路下の新会県となった。

この宋代まで、現在の江門市 中心部(蓬江区)一帯は 未だ 蓬莱山(現在の中山公園から東湖公園あたりの丘陵地帯)を中心とする小さな島でしかなかった。徐々に沿岸沿いに集落地が形成されるようになり、元末明初(1363年)ごろの記録によると、蓬莱山の西面に大きな集落地が形成され、墟頂街と通称されていたという

明代を通じ、現在の江門市域は 広州府肇慶府 に分かれて管轄された。広州府下では 新寧県(1499年に新設)と新会県が、肇慶府下では 恩平県(1478年に今の 江門市恩平市中心部の北岸へ移転される)が主要な県城であった。下地図。

江門市

清代初期、未だ清朝の全国支配が確立されず、南明政権やその残党勢力が中国華南を中心に勢力を保持していた。特に、台湾を拠点に浙江省、福建省の沿岸部を荒らしまわった鄭氏政権を経済封鎖すべく、清朝政府は 2度の「遷界令」(1662年と 1664年)を発令する。これにより、海岸線より 25 km圏内の住民らは内陸部へ強制移住させられることとなり、海岸地帯の 県城、塩田、家屋らは徹底的に破壊されたのだった。このとき、江門市域の経済も完全に破壊されてしまう。

その経済封鎖は確かに鄭氏政権に大打撃を与えることに成功するも、清朝側のダメージも大きく、地元役人や住民から、広東巡撫の王来任、広東総督の周有徳らの高級官吏に至るまで、度々、旧地への帰郷願いが出されると、 1669年、朝廷は段階的に遷界令の緩和を進め、江門市一帯にも住民らが戻るようになる(最終的に全面撤廃されたのは、鄭氏台湾が降伏した直後の 1683年だった)。

江門市

その後、清代を通じ明代の行政区がそのまま踏襲される。
1870年、陽江県 が陽江州へ昇格されると、 同時に肇慶府 下から分離された 陽春県と恩平県を統括した。

1902年の中英続議通商行船条約が締結され、1904年3月7日に江門の 港湾地帯(宋代から発展した墟頂エリア)も対外開放されることとなる。これに合わせ、江門墟に 税関(今の 江門市蓬江区北街あたり)が設置される。以後、交易窓口となった 江門墟(現在の 江門市蓬江区)が台頭することとなり、新会県城の地位は徐々に低下し、2002年9月に新会市が江門市に吸収合併される形となる。

江門市

なお、現在の江門市 中心部(蓬江区)は、宋代にようやく集落が形成され、以降、徐々に拡大されていった漁村兼水運交易の中継地点を成した場所であり、現在のような行政の中心都市になったのは、共産党時代に入って 1983年に市制が確立されて以降であった。

江門市

それまでの中心地は、思平県城(県役所は今の 江門市恩平市良西鎮の恩平舗)にあった。後漢末期の 218年に、呉の孫権により高凉郡が新設されると、その郡都を兼務するまでになっていた。西晋時代に入り、群役所が転出されてしまうと、普通の県城へと降格される。以降、海安県城、斉安県城、恩平県城へと改名された。

現在の恩平市中心部が栄え出したのは、明代中期の 1478年に錦江の北岸に恩平県が移転され、県城が築城されて以降である。現在、この旧市街地には城壁や城門は全く残されていないが、路地名にはこの明代以降の県城の記憶がしっかり刻みこまれていた。西門街、百貨店西門支店、恩平西門車駅、西門教師村、恩城鎮、東門街、東朝街など。

江門市

また、台山地区の旧市街地にも、かつて 県城(新寧県城跡)があった。明代に新築された城壁跡などは一切残されていないが、やはり路地名にかつての記憶が息づいていた。環城北路、環城西路、西濠路、学宮路、県前路、環南后街、南門路、環城南路、南門西路、南門橋、中国工商銀行南橋支店、城東路、正市街など。

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