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恵州市
訪問日:20--年-月-旬 『大陸西遊記』~
広東省 恵州市 ~ 人口 472万人、 一人当たり GDP 35,000 元
➠➠➠ 恵州市内の 城跡リスト ➠➠➠
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恵州城(欣楽県城、龍川郡城、循州城、帰善県城)
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龍門県城
広東省深圳市
福田区の 地下鉄「崗厦北駅」7番出口から発着する、恵州行の大型バスに乗車する(15元)。その他の乗車スポットとして、「大劇院駅 E出口」「黄貝嶺駅 H出口」「蓮塘口岸駅 D出口」もある(Aルート。運行時間 6;00~20;40)。ちなみに、Bルートの乗車スポットは 地下鉄「宝安中心駅 B出口」「深大駅 A出口」「高新園駅 D出口」「車公廟駅 C出口」。
高速道路を使って約 1時間で到着。
恵州市内での下車スポットは、「バス停(白雲前嘉逸園)」「バス停(恵州学院)」「バス停(花辺嶺広場)」「バス停(東平市場)」「バス停(華貿天地)」「バス停(博羅天虹)」の 4ヵ所だった。
今回は、恵州市中心部(恵城区)と 羅陽区博羅鎮の 2か所を訪問予定だったので、終点の「博羅天虹」まで乗り続けることにした。
※ 「羅湖口岸バスターミナル」から 恵州、博羅行の大型バスは 65元(30分に一本)、約 2時間。
下車後は早速、「博羅県博物館」と「博羅古城」エリアの見学を開始する。 かつて秦代に、博羅県城が開設された場所である(下地図)。
その後、168番路線バス(恵州市博羅県~東莞市橋頭鎮までを往来する、広東省内でも屈指の長距離ルートを走る路線バス。運賃は距離制で 2~12元)に乗車し、旧市街地にある バス停「東湖口」で下車する。
そのまま、少し離れた市街地内に「恵州博物館(9;00~17;00、月曜日休館)」に先に立ち寄ることにした(2番、10番、13番路線バスに條乗車し、バス停「市民公園」で下車)。入館時間が 16;30までなので優先した。
そのまま徒歩で旧市街地まで戻ることにする。東江にかかる恵州大橋を渡りつつ、恵州城跡の遠景を写真撮影しておいた。 そのまま残りの時間で観光地化された旧市街地を散策する。
一通り見学を終えると、旧市街地の北側にある 5つ星ホテル「恵州康帝国際酒店」まで移動する。ここから深圳市行の大型バスがあるので、再び 1時間かけて深圳市内まで戻ることができた。早朝から夜までの、まる一日がかりの往復となった、
【 恵州市の 歴史 】
新石器時代の後期には、すでに人類の生息が確認されているという。
中原が春秋戦国時代のころは、百粤(越)の地に分類されていた。しかし、遺跡の発掘調査から、恵州市一帯にあった集落でも中原の文物が見つかっており、当時から一定の交易が行われていたことが判明している。今の恵州市域の 北部一帯(博羅県が中心)には、春秋戦国時代に「縛類国」という羅氏族が率いた部族国家が存在したという記述も残されているらしいが、秦の始皇帝による嶺南遠征の前後に消滅してしまったと考えられている。
秦の始皇帝は紀元前 214年に嶺南地方一帯の武力併合にも成功し、翌年にこの地域に郡県制を導入する。恵州一帯は南海郡下の傅羅県に帰属されることとなる。かつて「縛類国」が築いた王都が修築されて、県城となったと考えられる(今の 恵州市博羅県の旧市街地)。
秦滅亡後の混乱期に建国された南越国の版図下に入るも、紀元前 111年に前漢王朝の武帝による討伐を受け、南越国が滅亡すると、この嶺南地方一帯も前漢王朝の領土に併合される。引き続き、恵州一帯は南海郡下の傅羅県の管轄下とされた。
時は下って、三国時代、呉により中国華南一帯は領有されていたが、呉末期の 256年、傅羅県は博羅県へと改名され、さらに一部が分離されて 欣楽県(後の 帰善県の前身)が新設される。
東晋朝は南海郡の東部を分割し、東官郡を新設する。ほぼ時を同じくして、博羅県からも 海豊県、欣楽県、安懐県の 3県が 分離・新設される。博羅県と欣楽県の 2県は引き続き、南海郡に帰属するも、安懐県は東官郡の管轄下へ移転される。
南北朝時代、安懐県(後に懐安県へと改名)と 欣楽県が東官郡の管轄下に入り、博羅県(後に羅陽県が 分離・新設される)は引き続き、南海郡に帰属された。
同じく南北朝時代の梁王朝下の 503年、南海郡から梁化郡が 分離・新設される。郡役所は 梁化屯(今の 恵東市梁化)に開設される。これが現在の恵州市内で初めて郡役所が設置された瞬間であった。あわせて、懐安県が廃止され欣楽県へ、羅陽県も廃止され博羅県へ、それぞれ再編入される。欣楽県と博羅県は共に梁化郡に帰属された。
南朝・陳王朝の治世下の 588年、欣楽県は帰善県へと改名される。以後、中華民国時代まで、現在の恵州市恵城区の古城は、帰善県と呼ばれるようになる。
南北朝時代を統一した隋朝初期の 589年、梁化郡が廃止され、帰善県城内に循州総管府が新設される。広東省東部は循州と潮州の 2州体制となる。恵州市域は循州に帰属された。この循州総管府は「木山の阜」、つまり、現在の恵州市中山公園内に開設されていた。
隋朝 2代目皇帝・煬帝の治世下の 607年、循州は龍川郡へと改名される。
唐代初期の 622年、龍川郡が循州へ戻される。以後、唐代にも雷郷郡や海豊郡などの名称変更が繰り返される。
劉岩が南漢国を建国した 917年、禎州が設置され、帰善県、博羅県、河源県、海豊県の 4県を監督するものとし、州役所が 帰善県城(恵州市街区)に開設される。
北宋時代の 1020年、太子であった 趙禎(後に 4代目皇帝となる仁宗)の漢字とだぶったため、州名が恵州へと変更される。
元代の 1279年には恵州路へ、明代、清代には恵州府へと末尾が変わるも、「恵州」の名は不動となり、現代まで続くこととなる。
上写真は、1925年10月初旬に国民解放軍が第二次東征した際、その攻撃によって落城した当時の恵州城の様子。
さて、帰善県城跡(欣楽県城、龍川郡城、循州城、恵州城 など同じ)であるが、北門にあたる朝京門が現存しているものの、その他の城壁類はすべて撤去されてしまっている。しかし、路地名にはかつての記憶がしっかり刻みこまれていた。環城西路、后所街、南門路、水門路、環城東路など。
また、恵州市中心部から北へ 80 kmにある龍門県にも、かつて県城が設置されていた。同じく城壁や城門は全く残されていないが、旧市街地内にある路地や地名にはかつての名残が色濃く記憶されている。
この龍門県城であるが、明代の 1496年に増城県の東北部分と博羅県の西北部分から 分離・新設された県役所が起源となっており、もともとあった西林都七星巌の役所跡が改修されて、築城されたものである。清末まで広州府の管轄下に置かれていた。
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