BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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内モンゴル自治区 フフホト市 ~ 人口 300万人、 一人当たり GDP 37,000 元


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  綏遠城(フフホト城、帰化城)



【 フフホト市の 歴史 】

フフホト市の歴史は長い。かつての華夏文明発祥の地の一つとされる。
現在の市街地から 33 km離れた保合少郷大竈村にある大竈遺跡では、旧石器時代早期から 新石器時代後期に至るまでの長期間に渡る集落遺跡が発見されており、この地で 大竈文化(古代中国文明の一つ)が花開いていた証拠とされている。

戦国時代の紀元前 306年、趙国の武霊王は陰山山脈の麓に長城を築城する。あわせて雲中郡を設置し、現在のフフホト市の南西にある托克托県に郡役所が開設された。

前漢時代の 7代目皇帝・武帝により、河套地区(オルドス地方)に一つの軍事拠点が築城された。それが、今のフフホト市新城区塔利村に残る土城遺跡である。
後漢から三国時代、西晋時代を経て、南北朝時代に至る間、中原の漢民族王朝の力が弱まり、北方エリアでは鮮卑族の勢力が拡大する。鮮卑族が築いた王都は、現在のフフホト市街区から南へ 40 kmにある林格楽県の土城村の北側にあったという。 鮮卑族はその後、中原へ討って出て、北魏王朝を建国し、華北一帯を支配下に置く大勢力となる。北魏はその後、東魏と西魏に分裂し、北周王朝へと 続くも、基本的には鮮卑族王室の血筋が絶えることはなかった。しかし、北周は隋王朝へ権力禅譲 することになり、その全領土を失うことになる。このころから、北方では突厥民族が勢力を伸長させてくる。

唐朝の太宗の治世下、唐軍は現在のフフホト市にある蜈蚣壩での戦闘にて、突厥軍に大敗する。 708年、唐王朝はその統治体制を再構築すべく、現在のフフホト市の周囲に 東受降城、中受降城、西受降城の 3つの出城を築城する。
紀元前 10世紀始め、遼王朝はこの地に天徳軍と豊州を設置した。豊州城は現在のフフホト市街区の東南 20 kmにある白塔村付近に建設されたという。

時は下って明代後期、モンゴルの一部族であったトメト部の長であった アルタン・ハーンは、1572年ごろから豊州一帯に勢力を張るようになり、モンゴル高原南部をその支配下に置くまでに成長する。そして、以前からこの地方に流入していた漢人の定住民を居住させる町として、1581年、中国式の城郭都市 バイシン(大板升)を築城する。ここの城壁は青いレンガ製で、遠くから見ると、城郭都市自体が青く見えたことから、「青城」の異名を持つようになる。これがフフホト市街地の起源となる。その後、アルタンは明王朝と講和し、国境沿いでの貿易活動が認められると、この漢民族の都市となっていたフフホト市は明王朝により「帰化城」の名を与えられ、この地は中国からモンゴル高原に流れる物資の集積地となって繁栄することになる。

このアルタンが率いたトメト部はモンゴルー中国間の交易利権を独占したため、 その定住拠点である フフホト(帰化城)は急速に発展することになったが、この利権に目をつけたモンゴル別部族であるチャハル部の リンダン・ハーンにより、1628年、この地を奪われてしまう。 1634年、その リンダン・ハーンが病死すると、今度は満州民族の後金が フフホト(帰化城)を占領し、内モンゴル全域を支配して、1636年、国号を清と改める。

清王朝はその後、万里の長城を南下し、明を滅亡させ、北京を首都ととする中国本土の王朝へと成り上がっていく。

フフホト市

清朝は 1694年、フフホト城(帰化城)の外側にさらに外城を増築し、東面、南面、西面を覆う形で城壁を巡らせた。後に、さらに フフホト(帰化城)から 2.5 km東北にも軍事要塞を築城し、綏遠城と命名する。ここが、オルドス地方の防衛を担当する八旗の駐留地となる。綏遠城は軍事防衛施設に特化した要塞であったのに対し、旧フフホト城(帰化城)は城内に住民を抱えた、一般的な城郭都市であった。
清代末年、この地域は、帰化城と綏遠城はあわせて「帰綏」と呼ばれるようになり、中央政府の直轄地として内モンゴルの政治、経済、文化の中心地となって繁栄を謳歌する。

日中戦争時代、この地を占領した日本軍は、綏遠省帰綏市から厚和特别市へと改名するも、戦後は再び、帰綏市へと戻された。
1954年4月25日、帰緩市はフフホト市と改名され、内モンゴル自治区の省都となる。

フフホト市

なお、清代に築城された軍事要塞目的の綏遠城跡であるが、城壁や堀川は完全に撤去されているが、旧市街地の路地名には多くの名残が目についた。西護城河街(城外西側の濠跡)、東護城河街(城外東側の濠跡)、阜安門遺跡(西南側の城門跡)、財神廟街、総局街、鼓楼立橋、馬神廟街、糧向府街、水源街。
本来の市民が生活した帰化城は、この城の南西部 2.5 kmの河を挟んだ地域に広がっていたわけである。

綏遠城跡の北側にあるフフホト中央駅から、モンゴルの首都 ウランバートルまで国際列車が通っている。

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