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淮南市
訪問日:20--年-月-旬 『大陸西遊記』~
安徽省 淮南市 ~ 人口 305万人、 一人当たり GDP 58,000 元
➠➠➠ 淮南市内の 城跡リスト ➠➠➠
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寿春県城(楚国 王都、淮南国 王都、九江郡城、淮南郡城、袁術「仲」政権 王都、寿州城)
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鳳台県城(州来子国 王都、蔡国 王都、下蔡県城、下蔡鎮城、下蔡鎮巡検司)
【 淮南市の 歴史 】
夏王朝、商王朝時代、「淮夷の地」に属した。
西周王朝時代、各地には諸侯が封じられ、数多くの侯国が割拠していた。この時代、現在の淮南市一帯には、州来子国が配されていた(王都は、現在の 淮南市鳳台県中心部)。下地図。
春秋時代に突入すると、諸侯間の紛争が激化する。紀元前 529年、呉国が州来子国を亡ぼし、その旧領を併合する。南より勢力を伸張させた楚国が台頭すると、淮河上流に位置した蔡国の国境を幾度も脅かし、蔡国は遷都に遷都を重ねつつ、東の 強国・呉に救援を求める。こうして呉蔡同盟が成立すると、呉国は蔡国を支援して、紀元前 493年、旧州来国の王都跡地に遷都させ、この地を下蔡へ改称させる。
しかし結局、50年後の紀元前 447年、蔡国は楚国に滅ぼされることとなった。
戦国時代末期の紀元前 241年、西から秦国の圧迫を受けていた楚国は、王都を 寿春(今の 淮南市寿県)へ移転し、「郢」と改称する。これ以降、現在の淮南市エリアは、楚国の王都近郊に位置することとなり、大いに文明開化が進展することとなる。
その楚国も 紀元前 223年、ついに秦国により滅ぼされる。
紀元前 221年、秦の始皇帝が中原を統一すると、全国に郡県制が導入される。この時、現在の淮南市域のうち、淮河以南は九江郡(郡都は寿春県城 ー 今の 淮南市寿県)に、淮河以北は泗水郡に統括された。
項羽との抗争に勝利し、前漢王朝を建国したばかりの紀元前 203年、劉邦は対項羽戦で協力した英布を淮南王に封じる。英布は、自身の 故郷・六県城(今の
安徽省六安市
)に淮南国王都を開設し、配下の 九江郡、廬江郡、衡山郡、豫章郡の 4郡を統括した。下地図。
しかし、間もなく、劉邦により建国の功臣らの粛清が始まると、身の危険を感じた英布は挙兵し、劉邦軍と激突するも、最終的に敗死に追い込まれる(紀元前 196年)。
英布を滅ぼした劉邦は、代わりに自身の第七子である劉長を淮南王に封じると、王都も 六県城(今の
安徽省六安市
)から、寿春県城(今の 淮南市寿県)へ遷都させる。
しかし、劉邦の四男・文帝が第 5代目皇帝であった時代、異母弟の劉長の言動は朝廷を侮辱するものが目立ち、ついに紀元前 174年、劉長は四川省への流罪を言い渡されるも、その途中で自ら断食して死去する。その直後、文帝は 城陽王・劉喜を淮南王へ転任させる。
紀元前 164年、劉長の 3人の子供が成長すると、文帝は淮南国を 3か国に分割し、淮南国、衡山国、廬江国を立国させ、この三人に継承させる(長男の劉安が淮南王を担当した。王都は引き続き、寿春県城)。
しかし、7代目皇帝・武帝の治世下の紀元前 122年、北方の匈奴討伐戦に非協力的だったことから、劉安は謀反の罪を問われて自尽させられると、そのまま淮南国も廃止される。直後に、九江郡が復活設置され、旧王都だった 寿春県城(今の 淮南市寿県)が郡都を兼務した(下地図)。
この激動の前漢時代、淮河北岸部分(現在の 淮南市鳳台県)は、一貫して沛郡の 下蔡県(現在の 淮南市鳳台県中心部の城関鎮)に属し、最初から前漢朝の直轄領に組み込まれていた。下地図。
後漢時代、淮河両岸エリアは共に九江郡に属し、引き続き、寿春県と下蔡県に分かれて統括された。
後漢末、袁術(155~199年)が 寿春県城(今の 淮南市寿県)を淮南郡の郡都に定める。197年にはこの寿春県城を王都として、「仲」王朝を建国するも、諸侯や部下らの離反を招き、曹操(155~220年)に追い詰められ滅亡する。淮南郡を併合した曹操は、引き続き、寿春県城に郡都を兼務させた。下地図。
その後、魏の 文帝(曹丕。187~226年)は、その子の 曹邕(?~229年)、続いて、自身の 末弟・曹彪(195~251年。曹操の末子)を淮南王へ封じる。233年、王都が 合肥新城(今の
安徽省合肥市
廬陽区三十崗郷陳龍村)へ移転される。
この三国時代、淮河両岸エリアは、淮南郡に統括されていた。なお、後に孫呉建国の名将となる周泰は、この 下蔡県(今の 淮南市鳳台県)出身である(周泰が誕生した当時は、九江郡のままだった。後に袁術により、淮南郡に吸収合併されることとなる)。上地図。
西晋時代初期、淮南郡の郡役所が 寿春県城(今の 淮南市寿県)へ再移転される。永嘉の乱が勃発し、華北地方や淮河流域が北方民族を交えて大混乱に陥る中、長江から淮川間の肥沃なエリアは大いに荒廃し、住民らは流民と化して長江以南へ避難していくこととなる。
この 南北朝時代、劉宋朝、斉朝、梁朝は、東晋朝が設置した淮南郡をそのまま踏襲する(豫州に帰属)。途中、梁郡などが一時的に新設されたりするも、基本的には淮南郡がメインであった。五胡十六国時代を経て、華北地方が統一されると、強大化した北朝の 北魏朝、北斉朝、北周朝、隋朝が長江以北まで勢力圏を拡張させてくる。この激動の時代にあっても、淮河両岸は、下蔡県(汝陰郡に帰属)と、寿春県城(淮南郡の郡都)に分かれて統轄されていた。
唐代、淮南道が新設されると、淮南郡から改編された寿州はこれに統括された。また、淮河北岸(今の 淮南市鳳台県)は引き続き、下蔡県に統括された(河南道下の潁州に帰属)。下地図。
五代十国時代も引き続き、寿州と下蔡県が、呉国、南唐国の支配下で踏襲される。下地図。
北宋時代に淮南路が新設されると、寿州もこれに属した。 1071年、淮南路が東西に分離されると、寿州は淮南西路に統括される。その下部の行政区は、全く変更なく、寿春県(今の 淮南市寿県)と、下蔡県(現在の 淮南市鳳台県中心部の城関鎮)が継承され、淮河両岸を統括した。
南宋朝と金朝との和議が締結されると、淮河が国境線に定められる。こうして、現在の淮南市域は南北に分断され、両王朝の支配を受けることとなった。
金王朝、南宋王朝を滅ぼしたモンゴル軍が、元王朝を建国して中国を再統一すると、寿春県と下蔡県は河南江北行中書省下の安豊路に統括された。1291年、下蔡県が下蔡鎮へ降格され、代わりに 懐遠県(今の
安徽省蚌埠市
懐遠県)が新設されると、淮南北岸エリアは懐遠県の行政区となる。
明代、清代も引き続き、淮南両岸は、寿州(今の 淮南市寿県)、懐遠県、鳳陽県に分かれて統轄された(いずれも鳳陽府に帰属)。上地図。
1733年、寿州から鳳台県が 分離・新設されると、下蔡鎮城(現在の 淮南市鳳台県中心部の城関鎮。当時、下蔡鎮巡検司が開設されていた)へ入居することとなる。
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